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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

関東大震災90年 防災に賭けた二人の男

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NHK BS歴史館
関東大震災90年 防災に賭けた二人の男

 

 

大正12年9月1日11時58分、関東大震災発生…関東一円をマグニチュード7.9の巨大地震が襲いました。電気、ガス、水道などライフラインは壊滅、首都圏はパニック状態に陥りました。

死者10万人、史上最悪の都市災害が起きたのです。この未曽有の災害に立ち向かった二人の科学者がいました。

一人は関東大震災を予知した今村明恒、もう一人が物理学者、寺田寅彦です。…寺田は地震の被害を拡大させた原因が都心部を焼き尽くした火災だった事に注目、科学の力で震災をどう防ぐか腐心しました。…寺田は防災という言葉を生み出すとともにこんなメッセージを残します。

”天災は忘れた頃にやってくる”

自信の予知と科学による防災、関東大震災をキッカケに災害にどう備えるか社会に訴え続けた二人の科学者。…BS歴史館は防災の原点について考えます。

 

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明治38(1905)年、関東大震災の18年前、今村の研究成果が雑誌に紹介されます。…「関東地方に百年の周期で地震が発生する。今後50年以内に関東地震が起こる」、と予測したのです。

また当時の都市の人口密集度や都市の消防インフラの整備状況から地震による火災被害を推定10万人と予測、家屋の倒壊を防ぐための住宅の補強や火災を起こしやすい石油ランプから電燈への変更など具体的な災害対策を提言します。

この論文は地震学の第一人者、大森房吉教授も好意的に受けとめました。…しかし大森には一つだけ同調できない部分がありました。…それは、”地震予知の発表” …大森は地震学者の予知がもたらす社会的影響を憂慮していたのです。

4ヶ月後、大森の不安は的中します。ある新聞に『大地震襲来説』…被害者数10万人が強調され、帝国大学地震学者による大地震襲来の予言としてたちまち読者の反響を呼びました。…防災に関する呼びかけなど一言も書かれません。

おりしも小さな地震が頻発していた時期、不安が広がり民衆がパニックを起こす騒ぎまで起こるしまつ…仕方無く、第一人者の大森が 「今井の説は妄言である」 と発表し、事態の収拾を図ったのです。

今井は嘘つき学者として非難され、学者としての権威は失墜、上司の大森とも深い溝が出来てしまいました。…今井の防災への呼びかけはまったく無視されて運命の時間を目指し、時は刻々と進んでゆきます。

そして大正12年9月1日11時58分を迎えます。…震災当日、寺田は上野の展覧会場で地震に遭遇します。上野は震度5の揺れ、東京の大部分は震度5~6でした。

「それ程の地震では無い」、と思い外に出た寺田が目にしたものは、空を覆うように広がる雲、とんでもない火災が発生していたのです。…行く先々で寺田は凄まじい光景を目にします。

地震では倒れなかった建物が鉄骨も露わに燃え崩れていました。…火災は3日に渡って続き、都心部のほとんどを焼き尽くします。

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寺田寅彦著『事変の記憶』より)
『…今度の火事で東京の町の立て直しの目論見がいろいろ出ている。これとよく似た事が昔の記録にも数々出ている。たとえば明暦の大火事の経験から、京都と日本橋の間に三つの広小路を造った…いわゆる防火線だ。

そんな事はとくの昔に忘れて中橋広小路が名ばかりに残っていた。そして町幅に構わず、地盤に構わず高い建物を建て並べた…そこを見計らって今度の地震と火災が来た …』

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恐るべき都市災害に科学はどう立ち向かうのか…これが寺田のライフワークになって行きます。


名古屋大学教授 武村雅之
『…関東大震災は10万人亡くなっていますが驚く事に東京のたった1ヶ所で3万8000人の人が亡くなった場所があります…両国国技館の当たりが広場となっていまして人々が荷物を持って、積んで非難したのです。…ここで大量に亡くなります。

山のように積まれた荷物に四方八方から火が来るんです…家財道具に火が付きますよね、燃えますよね、全滅ですよ。…燃料を背負って逃げて来ているようなものです。

荷物を火災の時は運び出してはいけない…これは江戸時代では常識、…背くと罰せられるのです。

元禄地震 死者=340人 江戸の人口=70万人
関東大震災 死者=10万人 東京市の人口=220万人
元禄地震の方が大きな地震であったにも関わらず火災は起きていません。

もう一つの要因は、隅田川の向こうは湿地帯で江戸期は住める所では無かった…しかし明治以降、土木技術が進んで人が住むようになった…ここで多くが亡くなっています。…』

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「江戸時代は火災がしょっちゅう起こっていたので逃げ方の作法が確立していたのです。江戸時代の人々はルールを伝承していた…しかし明治で途絶えてしまったんですね」

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(9/1日、13:00⇒16:00⇒20:00と火災が拡大していった)


震災前、ホラ吹きとまで言われた地震学者、今村明恒は、一転、関東大震災を予測した自身の神様として時代の寵児になっていました。

再び同じ被害を起こすまい…自ら予言した大災害を目の当たりにした今村は、震災後は精力的に予知や防災の提言を行って行きます。

そして次に大地震が起こりうる場所は東南海地域だと予測しました。今村は観測施設を設けるよう国に提言しますが予算難で却下、仕方なく私財を投じて和歌山県に観測所を設立します。…更に研究のかたわら人々への防災意識を高める活動に取り組みます。

とりわけ女性や子供たちへの啓もうに力を入れました。誰でもわかるように地震や防災の知識を広めようとしたのです。…また今村は広範囲に渡る津波を啓蒙するために、小学校の教科書に津波が来たときの避難行動を教える逸話を文部省に働きかけ、教科書に載せたのです。

安政南海地震
津波被害から逃れた、ある村の話
稲むらの火
村の高台に住む庄やの五兵衛が
地震の揺れを感じた後、津波の来襲に気づきます。

それを村人たちに知らせるため
五兵衛は自分の田の刈り取ったばかりの
稲の束に松明で火を付け
村人たちの注意を引きつけます。

庄やの家が火事だと集まった
村人たちの眼下で津波が猛威をふるいます。

五兵衛の気転が
村人たちを救ったのです。

今村は、津波の危険性の高い各地を自ら訪れました。…それぞれの地域の防災設備の効果や問題点について指摘し、津波対策を訴えました。

ところが太平洋戦争によって活動の中断を余儀なくされたのです。…そうした中でまたしても今村の予想が的中してしまいます。

昭和19(1944)年12月7日、東南海地震 マグニチュード7.9、戦争中という事で国防機密扱いとなり、実態すら伝わっていない。

更に終戦翌年の、昭和21(1946)年12月21日、南海地震発生、マグニチュード8.0…紀伊半島や四国など東南海の広範囲に及ぶ巨大地震でした。

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死者・行方不明者1400人以上、家屋全壊12000棟という大きな被害、それを電話で耳にした時、今村は茫然とその場に立ちつくしたといいます。

またしても地震を予知しながらその備えは追いつかなかったのです…この1年後、地震の予知と啓蒙に生涯を懸けた今村はこの世を去りました。…今村明恒 死去(享年77)

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名古屋大学教授 武村雅之
『…実は、気象庁の南海地震の震災調査報告書に『稲むらの火』の事が書いてあります…あの規模の津波が来てこの程度の被害ですんだのは、おそおらく『稲むらの火』で津波の勉強をしていたためではないか…

…と書いてあるんです。南海地震が来た時に本当に落胆した今村先生にこの事実を伝えてあげたいですね。…』

 

関東大震災後、寺田寅彦は、今田明恒とともに地震の調査研究に奔走しました。その中で寺田は、今村とは違う形で災害対策を行おうとします。

「最大限の地震に対して安全なるべき施設をさえしておけば、地震というものはあっても恐ろしいものではなくなるはずである」(寺田寅彦著『地震雑感』より)

科学史家 小林惟司さん
「防災という言葉の命名者は、寺田先生です」

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四国から駿河湾に至る南海トラフなどのプレート境界で起こる巨大地震、実は海底に地震発生の謎がある事を初めて指摘したのが関東大震災後に海底調査をした物理学者・寺田寅彦でした。

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寺田が種をまいた研究は40年後、地殻変動による巨大地震発生のメカニズム、『プレートテクトニクス理論』として証明されます。

あらゆる科学を結集させ地震の猛威に対抗しようとした寺田、しかしそんな思いとは裏腹に関東大震災後も地震など自然災害はおさまる気配はありませんでした。

晩年、寺田はその原因を突き詰めて行く中で一抹の懐疑を覚え始めます。…それは ”日本人が災害に対していかに健忘症であるか” ということから発していました。

地震の災害も一年経たないうちに
大抵の人間はもう忘れてしまって

この高価なレッスンも
何にもならない事になる事は
ほとんど見え透いていると
僕は考えています。

すっかりもう人が忘れた頃に
地震がきて
また同じような事を
繰り返すに違いないと思っています。
(『小宮豊隆宛書簡』より)

その一方で寺田は、”日本人が災害によって鍛えられてきたのではないか” という側面も指摘しています。

我々人間はこうした災難に
養いはぐくまれて育って来たものであって

丁度野菜や鳥獣魚肉を食って
育ってきたのと同じように
災難を食って生き残って来た種族であって

日本人を日本人にしたのは
神代から今日まで
根気よく続けられて来た
この災難教育であったかも知れない。
寺田寅彦著『災難雑考』より)

日本人の健忘症に警鐘を鳴らしながら、災害によって鍛えられてきた国民性にも言及する晩年の寺田寅彦、こんな言葉を残し世を去ります。

もし自然の歴史が繰り返すとすれば
20世紀の終わりか
21世紀の初めごろまでには

もう一度
関東大地震が襲来するはずである

困った事にはその頃の東京市民は
もう大地震の事などは
きれいに忘れてしまっていて

地震が来た時の災害を助長するような
あらゆる危険な施設を
累積していることだろう

人間と動物との違いは
明日の事を考えるか考えないか
というだけである

こういう世話をやくのも
やはり大正12年の震火災を
体験して来た

現在の市民の義務ではないかと
思うのである

寺田寅彦 死去(享年57)

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