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緊迫の24時間/新資料が明かす二・二六事件の内幕

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NHK その時歴史が動いた
緊迫の24時間/新資料が明かす二・二六事件の内幕

昭和初期、日本は深刻な不景気に悩まされていました…企業の倒産が相次ぎ賃金引下げや人員整理が行われて失業者が増大、農産物の価格も暴落、東北地方を中心に農家の多くが貧困にあえいでいました。

こうした事態に対し、軍部の青年将校の一部は、日本の行き詰まりの原因は財閥や政党などの支配層の腐敗にあると感じ、軍部中心の新しい政府を作って日本の政治や外交の転換を図ろうとするようになります。

そうした青年将校の一人が元陸軍一等主計・磯部浅一です…磯辺は密かに同士を集め現在の政府を倒すための計画を実行に移そうとしました。

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昭和11(1936)年1月28日、磯部は真崎甚三郎陸軍大将の家を訪ねました…この頃、陸軍の内部には天皇を中心に新しい政治を行おうとする『皇道派』と財閥や官僚と組んで陸軍勢力を伸ばそうとする『統制派』の二つの勢力があって激しく対立していましたが真崎はこの皇道派の中心人物でした。

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磯部は真崎が自分たちの後ろ盾になってくれると期待し、その家を訪ねたのです…磯部は計画の具体的な内容は明らかにしませんでしたが自分たちの活動に対して資金を援助して欲しいと真崎に求めました。

磯部は真崎の態度から自分たちが行動を起せば真崎も同調してくれるという感触を得たといいます。

それから一月後の2月26日未明、青年将校たちは行動を起しました…1400人あまりの下士官、兵を率いて複数の部隊に別れ、午前5時を期して同時に各所を襲ったのです。

内閣総理大臣岡田啓介のいる首相官邸を襲撃、大蔵大臣・高橋是清の私邸を襲撃し射殺、内大臣斎藤実の私邸を襲撃し射殺、侍従長鈴木貫太郎の私邸を襲撃し鈴木侍従長に重症を負わせます。

そしてかねてより皇道派と対立する統制派の中心人物、渡辺錠太郎教育総監の私邸を襲い、渡辺総監を射殺しました。

事件の7ヶ月前、皇道派の領袖で磯部たちが支持する真崎大将は派閥抗争に破れ、教育総監の座を追われていましたが渡辺総監はその恨みをかっていたのです。

更に決起部隊は、警視庁、陸軍大臣官邸、陸軍省などを占拠し日本の中枢部を制圧します…青年将校たちは着々と目的を果たしてゆくかに見えましたがその一方で早くもこの時点で一つの齟齬が生じていました。

岡田啓介総理大臣の官邸を襲撃した際、青年将校たちは岡田首相を射殺したものと思い込んでいましたがそれは人違いで岡田首相は無傷のまま押入れの中に身を潜めていたのです。

そんな事とは知らない青年将校たちは2月26日午前6時30分すぎ、占拠している陸軍大臣官邸に集まり、「決起趣意書」を読み上げるとともに川島陸軍大臣に要望を突きつけました。

その狙いは自分たちに好意的な真崎大将たちを中心として天皇自らが政治を行う天皇親政の新しい政府を打ち立てることでした。

東京千代田区永田町にある国立国会図書館、ここに昭和の歴史に残る重要な事件の証言が残されています。主に昭和40年代に録音された磁気テープです。録音後30年間は公表しないという条件で関係者の証言を修めたまま保管されてきました。


30年の時を経て明かされる真実
迫水秘書官証言テープ
去年秋、これらの証言のうち事件当時、首相秘書官だった迫水氏が事件について語った証言が公開されました。

昭和11年2月26日午前5時、二・二六事件発生の時、首相官邸の隣にある官舎で寝ていた迫水秘書官は銃声を聞いて目を覚ましました。

「事件が起こった時にまさか軍隊が出てくるとは夢にも思っていない…そのうきに機関銃が鳴り出し、軍隊が塀を越えて官邸に乱入するのを雪明りで見て “兵隊が出てきた万事休す”と感じた事を覚えています」(『迫水秘書官証言テープ』より)

兵士たちに岡田首相は銃殺されてと聞かされた迫水秘書官はその後、官邸の中に入ったとき、射殺されてのは別人であると気づきます。当時首相官邸に起居していた首相の義理の弟・松尾伝蔵予備役大佐が誤って殺されていたのです。

しかし青年将校たちも兵士たちもその事に気づいていませんでした…当の岡田首相は別の部屋の押入れの中に隠れていて無事だったのです。

岡田家に勤める人の様子から岡田首相の生存を知った迫水秘書官は、この事を外部に知らせるため占拠された地域の外に出る許可を得ようとしました。

「『私は私邸に帰って葬式の相談をしなければなりませんから、外へ出してください』と頼みました。そうしたら二等兵がついてきました。かわいらしい二等兵でね去年12月に入営したばかり、それで『いったいあなたは何で今日はここへ来たんだい』と言ったら『野外演習だ』っていいました。『初めて実弾を持たされました』とも…それで『あなたは知ってるのかい。総理大臣をあなた方は殺したんだよ』って言ったら『ええっ』って言ってその兵隊はびっくりしてしました。だから兵隊の末端にいたっては、まったく何がなにやらわからず “上官の命令は即ち朕の命令と心得よ” というもの通の行動であったのです」(『迫水秘書官証言テープ』より)

迫水秘書官が首相官邸に入ったのとほぼ同じ頃(2月26日午前8時30分)、皇道派の中心人物、真崎大将は磯部たちが占拠する陸軍大臣官邸を訪ねました。

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真崎大将は磯部たちに「とうとうやったか、お前達の心は、よーくわかっとる」と言い、それに対して磯部は「どうか善処していただきたい」と答えたといいます。

事件後に作られた調書によれば真崎大将は官邸の中にいた川島陸軍大臣に対し、事態収拾のために戒厳令を敷くべきだと述べ、その後、伏見宮邸へ赴き、新しい内閣を作るべきだと進言します。

一方、川島陸軍大臣は真崎大将の意を受けて皇居に向かいました…昭和天皇の侍従武官長だった本庄繁の日記、それによれば川島陸軍大臣は午前9時頃、皇居に参内、昭和天皇に拝謁し、状況説明の後、青年将校の決起趣意書を読み上げました。

これに対し陛下は「速やかに事件を鎮定すべく、ご沙汰あらせらる」と記されています。

この時のやり取りを記した別の資料があります…朝日新聞記者、高宮太平」の著書『軍国太平記』によれば

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川島陸軍大臣天皇
「こういう大事件が起こったのも現内閣の施政が民意に沿わないものが多いからだと思います。国体を明徴にし国民生活を安定させ、国防の充実を図るような施策を強く実施する内閣を早く作らねばならぬと存じます」

これに対し昭和天皇
陸軍大臣はそういうことまで言わないでもよかろう、それより反乱軍を速やかに鎮圧する方法を講ずるのが先決要件ではないか」と答えたといいます。

午前11時過ぎ迫水秘書官は宮内省に到着、宮内大臣・湯浅倉平に岡田首相が生存している事を伝えます。

「湯浅宮内大臣は非常に驚かれました…それですぐに内奏されました。それで陛下は『岡田啓介を一刻も早く安全な場所へ移すように』というお言葉であった。という事を私に言われました。それで安全なところへ移す方法としてやはり陸軍の中で誰か理解のある人がいないかと湯浅宮内大臣に問うと、湯浅大臣は『今、軍の人はどっちが敵か、どっちが味方かわからないから軍に話すことはおやめなさい』と極めて明瞭に湯浅さんが言われました」(『迫水秘書官証言テープ』より)

岡田首相生存の情報はこの時点で重要な価値を持つものでした…事件を起した青年将校たちは、直ちに新しい首相を決め軍部の主導による後継内閣を作って事態を収拾すべきだと主張していました。

しかし岡田首相がまだ生きているとなれば事情は異なります…首相の座が空席となったわけではないのですから急いで後継首相を決める必要は無いわけです。

事件発生から7時間、岡田首相は未だ兵士たちに占拠されている首相官邸の中にいました。

2月26日昼過ぎ、事件の勃発から半日が経過した頃、皇居に集まってきていた川島陸軍大臣、真崎大将をはじめとするする陸軍上層部は軍事参議官会議を開きます。

軍事参議官会議とは、本来天皇の求めに応じて軍の重要な事柄について意見を上奏する機関です。この時は昭和天皇の臨席のないまま非公式に開催され、事態の収拾策が議論されました。

会議では青年将校たちを擁護するかのような発言が相次ぎ、川島陸軍大臣は収拾に苦慮しました。その様子を目撃していた迫水秘書官の証言です、

「全くかわいそうに思えたのは川島義之という陸軍大臣です。みんなからめいめい勝手なことを言われて、処置・判断全くつずに呆然としておられた姿というのは、今でも目の前に出てくるような感じがします。…で荒木大将、真崎大将、林大将、みんなだんだんに集まってこられましたけれども、いずれも態度は極めて不鮮明だったと私は思います。極めて反乱軍に同情的だと感じました。要するに方針が決まらないで右往左往して全く頼りがない人たちばかりだなっていう印象を深く覚えています」(『迫水秘書官証言テープ』より)

会議の結果、とにかく青年将校たちを懐柔しようという方針が決まりました…そして紆余曲折の後、いわゆる『陸軍大臣告示』と呼ばれる文書が配布されます。

その中には次のような一節がありました「諸子の行動は、国体顕現の至情に基づくものと認む」…青年将校たちの行動は日本の政治の体制をより天皇中心とした強固なものにしたいという真心に基づくものであると認める。

同じ頃、皇道派に属し、決起部隊に同情的であったといわれる香椎浩平東京警備司令官の名で戦時警備令に基づく軍隊に対する告示が出されました。

そこには決起部隊を正規の部隊の一部として認めるかのような内容が記されていたのです…決起部隊を正規の部隊の一部として認め、共に占拠地帯の警備に当たらせるという驚くべき内容が書かれていたのです。

青年将校、そして兵士たちは歓喜しました…自分たちの行動が認められ、決起は成功したと思われたからです。

ニ・ニ六事件に際し、首相官邸襲撃に参加した小高修平さんは当事入隊して2ヶ月余りの初年兵でした。小高さんは陸軍大臣告示が示されたときの決起部隊の反応を次のように語ります。

「そういう状況下に告示を与えられたのは、私たちがやったことは良いことだと解釈されたと思いました…ある意味ほっとしました」

決起の参加者は全員ニ階級特進という噂まで流れました…事件勃発から11時間後、青年将校たちの計画通り決起は成功したかのように見えていました。

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陸軍の一部の青年将校に率いられた決起部隊が東京の中枢部を占拠し、着々と計画を達成しつつあるかに見えたその頃、海軍はどう動いていたのか…。

2月26日午前、海軍は軍艦から陸上に派遣する部隊、陸戦隊を横須賀から東京に送りました。その陸戦隊に迫水秘書官は未だ首相官邸に身を潜めている岡田首相の救出を頼めないかと考えました。ところが

「私は大角峯生海軍大臣に総理生存の旨を伝えて、『海軍が何とかできませんか今、松尾の遺骸があそこにありますから』松尾の遺骸を収容するために海軍の陸戦隊をあげる…それで総理大臣官邸占拠部隊に退去をたのんで、海軍の陸戦隊で官邸を警備をすることにして岡田総理を救出してほしいということを大角峯生大将に相談しました。そうしたら大角大将はびっくりされて『その話は俺は聞かない事にする。何も聞かなかったよ、君の言った事は聞こえなかったよ、もしそういう事なら陸海軍の戦争になるだけだからな』…といわれましてがっかりしました」(『迫水秘書官証言テープ』より)

この迫水秘書官の証言を信じるとすれば、26日昼の時点で海軍大臣は陸軍との決定的な対決を避けようとしていた事になります。岡田首相の救出もならず決起部隊の占拠が続くまま2月26日の夜が訪れました。

2月27日午前2時40分、宮中で開かれていた枢密院会議が戒厳令の施行を決定、午前3時50分、緊急勅令によって公布されました。東京全市は治安維持のため軍事力による警戒管理の下に置かれる事になったのです。

2月27日午前8時20分、昭和天皇は奉勅命令を親裁しました…その内容は、「戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある将校以下をして、速やかに現姿勢を徹し各所属師団長の隷下に復帰せしむべし」…決起部隊を占拠地から撤収させ元の部隊に返せというのです。

「戒厳司令官は、かくして武力行使の準備を整えしも、なお、なるべく説得により鎮定の目的を遂行することに努めたり」(『侍従武官長・本庄繁の日記』より)

そしてその日、拝謁の折、本庄武官長は青年将校たちについて次のように昭和天皇に言上します。
「彼らの行為は陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、もとより許すべからざるものなるも、その精神に至りては君国を思うにでたるものにして必ずしも咎むべきにあらず」

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これに対し昭和天皇
「朕が股肱の老臣を殺戮す。かくの如き凶暴の将校等、その精神においても何の赦すべきものありや…朕が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」

それに対し、本庄武官長は
「彼ら将校としては、かくすることが国家のためなりとの考えに発する次第なり」

昭和天皇
「それはただ私利私欲のためにせんとするものにあらずと言いうるのみ」

本庄日記には、次のような一節が記されています…「この日、陛下には鎮圧の手段実施の進捗せざるに焦慮あらせられ、『朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん』と仰せられ、真に恐櫂に耐えざるものあり」

昭和天皇は決起部隊の武力鎮圧に強い意思を持っている“…この情報が陸軍の上層部に伝わるにつれ事態は急変して行きます。

2月27日午後、陸軍皇道派の中心人物・真崎大将は青年将校たちが占拠している陸軍大臣官邸を訪れました。

真崎大将が首相となって新しい内閣を作ってくれるものと信じ込んでいた青年将校たちは言いました。

青年将校
「事態の収拾を真崎将軍にお願い申します。このことは全軍事参議官と全青年将校との一致せる意見としてご上奏お願い申したい」

ところが真崎大将は
「君らがさよう言ってくれることは真に嬉しいが、今は君らが連隊長の言うことを聞かねば何の処置もできない」と答え部隊の退去さえほのめかすそぶりを見せました。

真崎大将の支持を当てにしていた青年将校たちの狙いは頓挫してしまったのです。真崎はこの青年将校との話し合いについて川島陸軍大臣に次のように報告しています。

「戒厳命令は奉勅命令なり、もしこれに反するときは錦旗に反抗することになる。万一しかる場合においては自分は老いたりとはいえども陣頭に立ってお前たちを撃つぞ」と諭したと言うのです。

同時刻の2月27日午後、岡田首相は葬式の弔問客に紛れて首相官邸から脱出することに成功していました。今や青年将校たちの計画は随所で瓦解しつつありました。

2月27日午後4時、戦艦長門を始めとする連合艦隊第一艦隊の主力が東京湾、お台場沖に到着、 “鎮定されない場合は遺憾ながら国会議事堂に砲撃を加えよ” この命令のもと長門の主砲の照準が議事堂に定められます。

2月28日午前5時8分、事件発生から48時間後、戒厳司令部に対し、決起部隊を原隊に返すようにと天皇の奉勅命令が下達されました。2万を超す鎮圧部隊が決起部隊を包囲しました。

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兵に告ぐ「勅令が発せられたのである、すでに天皇陛下のご命令が発せられたのである…お前たちは上官の命令で…」

2月29日午前8時55分、投降を勧告する放送が開始され、決起部隊の兵士は午後2時ぐらいまでに原隊への復帰を果たします。勃発から4日目、ニ・ニ六事件は収束するに至りました。

「率直に言えば、このニ・ニ六事件というのは、若い連中が真崎大将あたりの煽動に乗ってですね、真崎大将が自分たちの頭領になってくれるものという風に確信して、そうして真崎大将なんかの、あらかじめ了解を得ることなくスタートしたものですね。したがって起きて後は、いわゆる皇道派の大将の真崎大将が一番困っちゃった。ですから陸軍の頭領の中の行動というものは極めて不可解、つまり前後脈略のない行動をしておられるんじゃないかと私は思うのです。天皇陛下が反乱軍の討伐をお命じになってから、初めて奉勅命令、反乱軍という言葉が出てきたというような事でして…こんな話しは僕はしたことがないよ。まあ公表が30年後ならいいでしょう」(『迫水秘書官証言テープ』より)


二・二六事件 その結末
二・二六事件青年将校の2人が自決し、事件を引き起こした青年将校たちには、一審非公開弁護人無しという特設裁判によって全員死刑の判決が下りました。

しかし反乱を幇助した罪に問われた真崎大将には無罪の判決が下りました。

19人が死刑判決を受け、銃殺された。…この事件の後、陸軍統制派は皇道派を一掃、…統制派は東条英機を中心として太平洋戦争への道をひた走る事になる。