旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

真田幸村に見る 「男のかっこよさ」

f:id:tabicafe:20200329121758j:plain

慶長20(1615)年5月7日 徳川の大軍はひたひたと豊臣秀頼がこもる大坂城の中心部に迫っていた・・大坂方の真田幸村毛利勝永らは残った兵力を結集し徳川家康の本陣に向け最後の突撃をこころみます。

正午ごろに開始された戦闘はたいへんな激戦となり徳川方の本多忠朝(上総大多喜5石)・小笠原秀政信濃松本8万石)らが討ち死にを遂げる・・混乱に乗じた真田隊は多くの敵陣を突破してついに家康本陣への突入に成功、3度にわたって猛攻を加えた・・精強をもって鳴る三河以来の旗本隊は大混乱に陥り、栄光ある徳川の馬印が転倒、家康は騎乗して後退したほどでした。

だが周囲から駆けつけた援軍により、本陣は態勢を立て直し真田隊を辛くも撃退する・・疲弊した幸村は、松平忠直(越前75万石)の部隊によって討ち取られた・・同日の深夜、大坂城は陥落。翌日、豊臣秀頼淀君が自害して大坂の陣は終了する。

なぜ、かくも真田隊は活躍できたのか。即席の寄せ集めの部隊であったのに・・私はその理由の一つとして徳川の将兵の士気の低さがあったのではないかと考えています。
たとえば関ケ原の戦いは、日本全国が2つに割れて戦った。東軍と西軍どちらが勝っても不思議ではなく勝てば莫大な恩賞を獲得できる一方、負ければ滅亡が待っていた。だから両軍は命がけで戦ったのである。

ところが大坂の陣は違う・・勝敗は初めから決していました。
大坂方に味方する大名は一人もいなかった・・秀頼は60万石余りの大名でしかなく合戦で手柄を立てても褒美はたかがしれている。こうした状況では、将も兵もまずは身の安全を図り懸命に戦うことをしません。

これに比して大坂方の主力は、失うもののない浪人たちです・・死にものぐるいで戦う彼らの前に兵力や装備ではるかにまさる徳川方は苦戦を強いられたのです。

近年、真の徳川政権は関ケ原の戦いの後ではなく、豊臣家滅亡を待ってうち立てられたとする説が提起されています・・関ケ原から大坂の陣までの十数年は、江戸と大坂、2つの 「公儀」 が存在したとする。私はこの説には従えない。もし、江戸と大坂が優劣はあったとしても同レベルの政権と呼べるなら大坂の陣は 「大名VS浪人」 ではなく 「大名VS大名」 もう少し緊迫したものになっただろうし真田隊の出番もなかったのではないかと思います。

歴史マニアとしての感慨は違っていて 「うーん、しびれるなあ」 と・・ずっと九度山紀伊)で不自由な生活を送りながら、いざ鎌倉という舞台で武将の本分を遺憾なく発揮する。小柄で穏やか・・不遇にめげず心の刃を研いでいた・・浪人たちのハートをつかみ彼らの協力を得て天下人・家康をあわや、というところまで追いつめた・・これこそ本当の 「男のかっこよさ」 じゃないかと思うのです。

本郷和人