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戦国悪女伝説 ~大阪の陣 淀殿の戦い~

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淀殿(1569-1615)

NHK 歴史秘話ヒストリア
戦国悪女伝説 ~大阪の陣 淀殿の戦い~

淀殿悪女伝説の真相とは?
生涯3度の落城を経験、戦国乱世を雄々しく生きた、悲劇の姫・淀の物語です。

 

episode 1
戦国不倫スキャンダル 淀殿は悪女?

永禄12(1569)年、滋賀県長浜市にて淀は、戦国大名浅井長政お市の方の長女として小谷城で生まれました。

天正元(1573)年、5歳の時、父・長政は織田信長の軍勢に城を攻められ、命を落としてしまします…淀は、母や幼い妹たちとともに命からがら城を脱出します。…その後、淀たちは柴田勝家の元に身を寄せます。

天正11(1583)年 淀15歳…しかし、そこも秀吉に攻められ、母・お市は命を落とします。

…その後、淀は意外な行動をとっています…親の敵である秀吉の側室になったのです。…この頃、淀たち3姉妹は、秀吉の元に引き取られており、長女として妹たちを守ろうとしたと考えられています。

天正17(1589)年 淀21歳、淀が秀吉の子を身ごもったことであるスキャンダルに巻き込まれます…本来はめでたい事なのに、この妊娠をめぐって悪い噂が飛び交います。

当時の噂を書きとめた宣教師の報告書には、…
「多くの者は秀吉の子ではないと信じている」
「笑うべき事だ」

お腹の子は、秀吉の子ではなく、淀が浮気をして出来た子であるという噂が町に広がっていったのです…なぜ、そんな噂が流れたのか?

秀吉には、淀の他に側室が15人以上いました…しかし、その誰にも子どもは出来ませんでした。秀吉は子どもを作る事が出来ないと思われていたのです。

噂は、たちまち広がり京の町には、淀をからかうこんな落首が立てられました…「ささたへて、茶々生い茂る内野原、今日はけいせい(国を危うくする美女)香りをきそいける」…淀は男を誘惑して国を滅ぼそうとしていると言うのです。

果たして淀は、本当に浮気をしたのでしょうか?…この頃、秀吉が定めていた城内の女性向けの規則が残っています。
「城から出す手紙は、全て侍女がチェックする事」
「夕方5時から朝8時まで外出禁止」
「秀吉以外の男性は立ち入りを禁ず」
という厳しいもの。

 

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静岡大学名誉教授 小和田哲男さん
「秀吉以外の男性が入れなかった奥の空間があるわけです…他の男性が淀に近づく事は難しかったと考えます。…秀吉自身は、自分の子だと自身を持っていたと思います」

激怒した秀吉は、噂を流した疑いのある者を手当たりしだい捕えるという行動に出ます…処刑した者なんと113人…淀は、子を身ごもった事で結果として多くの命を奪う事になってしまったのです。

天正19(1591)年 淀23歳…そんな淀に更に悲しい事が起こります。やっとの思いで生んだ男の子・鶴松を僅か3歳で亡くしてしまったのです。早すぎる我が子の死、淀は悲しみにくれました。

淀の鶴松への思いの深さを偲ばせるものが京都・妙心寺に守り伝えられています。…鶴松が生前遊んでいた玩具の船、船には鶴松の木像が乗っています…せめてあの世では、楽しく遊んで欲しいという母・淀の切ない思いが込められているものでした。

鶴松の死後、もう子どもは出来ないだろうと思った秀吉は、跡継ぎをめぐって重大な決断をします。甥の秀次を後継者に指名し、天下人の証、関白の地位を譲り渡すことでした。

 

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文禄2(1593)年 淀25歳…ところがそれから2年後、淀が再び身ごもり、2人目の子、秀頼を産んだのです。秀吉は秀頼が生まれるとすぐに秀次の娘と婚約させました。秀次と縁付かせる事で我が子を次の関白にしようとしたのです。

 

淀がこの婚約について秀次に出した手紙が残っています…「嬉しくありがたく思っています。めでたいこの婚約について、しっかり話合いを進めましょう」…我が子のめでたい縁談を素直に喜ぶ淀の姿が垣間見えます。

ところが秀頼が育っていくにつれ、秀吉の中に恐ろしい考えが浮かびます。…「自分が生きているうちに我が子、秀頼を後継者にしたい」…。

 

文禄4(1595)年 秀吉は秀次を切腹に追い込みます…更に秀頼の後継者としての座を確実にする為、秀次の妻や側室、子どもに至るまで30人以上を処刑しています。

子を産んだ事で再び混乱を巻き起こし、多くの死者を出す事になった淀、…淀は運命に翻弄される形で恐ろしい女と呼ばれる条件を備えて行く事になったのです。

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
秀吉死後の淀の戦い…淀VS.家康 京都巨大工事合戦!

上記画像のお市の方(右側)肖像は、淀が書かせた物です…左の淀と似ていますよね。…淀は両親の菩提を厚く弔う信心深い女性でした。(養源院 浅井長政お市を弔う)

京都市の西北にある北野天満宮、学問の神様、菅原道真を祀り、多くの人が訪れる京都を代表する名所です。本殿の一画には、秀頼の名が刻まれています…現在の北野天満宮の本殿は、秀吉の死後、秀頼の名の下、淀が建てたものなのです。

京都には、他にも淀が建て直した神社やお寺が多く存在します…今、私たちが見ている京都の美しい街並み誕生には、淀が大きく関わっていました。

その裏には、天下の覇権をめぐる徳川家と豊臣家の激しい勢力争いがあったのです。

 

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episode 2
淀VS.家康 京都巨大工事合戦

慶長3(1598)年 豊臣秀吉が死去、豊臣家の後取りは秀頼でしたが、まだ6歳だったため、淀に豊臣家の舵取りが任される事になります。

秀吉の死後の混乱の中で起きた関ヶ原の戦い…この戦いに勝利した徳川家康は政治の実権を握り、江戸幕府を開きます。戦いの後、大阪を本拠とする豊臣家は一大名に過ぎない地位に置かれてしまいます。

元々、秀吉が天下人だった頃、徳川家は豊臣家に臣下の礼をとっていました…豊臣家を預かる淀にとって家臣であるはずの家康の下に付く事は、受け入れがたい屈辱でした。

淀には一つよりどころがありました。それは豊臣家と朝廷との関係でした…豊臣家は朝廷の序列では、関白になれる最高の家柄、なれない徳川家よりも格が上でした。

この時、秀頼はまだ幼く、関白になる資格はありません…淀は、秀頼が将来、関白になる日に備え、朝廷に接近し、家康に対抗しようと考えます。そこで淀が打った手が…。

淀は、朝廷とつながりが深い、神社やお寺を立て直す事で、支持を広げようとしたのです…こうした工事について淀、自身が熱心に指示した手紙が残っています。

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寺のどこを修理するか、工事の担当者を誰にするかなど細々としたところまで目配りしている事がわかります。

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淀により、慶長8年に修理された寺の一つが五重塔で有名な東寺です。…境内の中心であり、国宝に指定されている金堂、当時、戦乱で焼け落ちていましたが淀が莫大な金を費やし、2年の歳月をかけて復興させました。

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桜の名所として有名な醍醐寺京都市伏見区)もこの頃、淀が蘇られたものです…紅葉の名所、真如堂京都市左京区)など京都の風景を形作る代表的な神社やお寺の修復を積極的に行いました。

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大工事は、京都にとどまりませんでした…淀が手掛けた神社や寺は、全国(出雲大社、長野・善光寺法隆寺など)で100以上に及びます。

大阪城天守閣 研究主幹 北川央さん
「淀と秀頼は、国家の安全、天下太平を祈祷する寺社の復興をやっている…豊臣家の立場を世間にアピールする重要な事業・施策だったのです」

京都の修復を進める淀が、最も力を入れていたものが秀吉を神として祀る、豊国神社の建設です。…当時の豊国神社の敷地は、なんと30万坪、東京ドーム21個分の広さを持つ巨大な神社でした。

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淀はその中心にシンボルとなるものを造っています。淀が建てたものは巨大な大仏殿、その中には、金で覆われた高さ19mの大仏が据えられました。…奈良の大仏を凌ぐ、日本最大の仏像でした。

この大仏は、盧舎那仏で宇宙全体をまとめ全ての人を光で照らす最高の仏です…淀は、豊臣家がこの世の支配者であることを示そうとしたと考えられます。慶長9年に神社で開かれた秀吉の7回忌の祭りには、朝廷から多くの公家が参拝、都中から数万の人が集まる壮大なイベントとなりました。

京の都で豊臣家への支持を集め、秀頼を関白に押し上げようという淀の計画は順調に進んでいるかのように見えました。

ところがこうした豊臣家の動きに警戒の目を光らせたのが徳川家康です…家康は、淀と対抗するかのように京都において大規模な工事を始めます。その手始めが京都の二条城です。淀が勢力を広げようとしていた京の中心に楔を打つように徳川家の拠点を築いたものでした。

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更に全国の大名に命じ、豊臣家の本拠地、大阪を威圧するかのように、名古屋城彦根城篠山城などを築いていきました。…ひとたび事が起これば武力で抑えつけるという家康の意志表示でした。

緊張状態が高まる家康との関係に苦しみ、淀は、病に臥すようになります。…淀を診察した医者の記録です…「気鬱のため胸が痛み食事がとれなくなっている」(『医学天正記』より)

家康は、更に追い打ちをかけます…秀頼に対して二条城に来て挨拶せよと言ってきたのです…家康は、秀頼を呼びつける事で徳川家の優位を世に示そうとしたのです。

豊臣家では、家康の要求を受け入れるか否か議論になります…もし拒絶すれば、家康との戦になるかもしれない、淀はこの要求をのまざるを得ませんでした。

慶長16(1611)年3月28日、19歳の秀頼は、二条城に赴き家康の下座につきます…徳川家に豊臣家が屈服した瞬間でした。…この後、淀と豊臣家は滅亡へとひた走る事になるのです。

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
戦国悪女伝説 ~大阪の陣 淀殿の戦い~

episode 3
30万の兵がしのぎをけずった戦国最大の戦い・大阪の陣…我が子を守るため自ら鎧をまとい立ち上がった母・淀の最後の時を見つめます

慶長19(1614)年9月、家康からひとつの重大な通告が伝えられました…それは、豊臣家の本拠地・大阪を明け渡して別の領地へ移れと言うものでした。

淀は悩みます…大阪城を放棄すれば朝廷との関係も薄くなり、秀頼が関白になる事は困難になります。淀は大阪を離れる事が出来ませんでした。

淀は、家康が攻めてくる事を見越して手を打ちます…豊臣家と所縁の深い大名に手紙を出し兵を出してくれるよう頼んだのです。…しかし、大阪城に駆け付けた大名は、誰ひとりいませんでした。

豊臣家には勝ち目が無いと淀を見捨てたのです…それどころか身近にいた豊臣家の家臣の中ですら城から逃げ出す者が現れるしまつでした。

やむなく淀は、かつて関ヶ原で家康にはむかい、領地、主を失った浪人たちをかき集める事にします…その中には、この戦いで名を上げる事になる真田幸村の姿もありました。

豊臣の総大将は22歳の秀頼、しかし淀は、なぜか秀頼に積極的に指揮をとらせることはありませんでした。…淀の様子を記した記録が残されています。
「秀頼のお袋、武具を着ける」(『当代記』より)

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淀は、なんと自ら鎧をまとい戦いの中に身をおきます…後継者の秀頼を危険な目に遭わせたくないと考えたのでしょうか…淀は、武装した女性たちを従え、先頭に立って城内を見回りました。
「武具を着けた女性、3、4人を従える」(『当代記』より)

大阪城の最高責任者として全ての事を自ら指図して決めて行ったといいます。
「全てを母(淀)が指図した」(『当代記』より)

慶長19(1614)年11月6日、大阪城にこもる淀に対し、家康の大軍が攻めかかります。戦国時代最大にして最期の戦い、大阪の陣の始まりです。…20万の徳川方に対して豊臣方は10万、それでも真田幸村をはじめとする武将の奮戦もあり、当初は互角の戦いでした。

しかし徳川方は大軍を頼みに入れ替わり立ち替わり、攻めよせます…援軍が来る見込みのない豊臣方は、このまま戦いが長引けば、いずれは落城するのは明らかでした。

徹底抗戦か…和睦すべきか…豊臣家の進む道は淀に委ねられました。ここで下した淀の決断、それは、自ら人質となって江戸に赴く事でした。
「御母(淀)が人質となる」(『駿府記』より)

自分の命と引き換えに大阪城と我が子、秀頼を守ろうとしたのです。…しかし、家康の返答は、なんと砲撃でした。淀の申し出は拒否されたのです。

慶長20(1615)年5月、…5カ月後、戦いは、大阪夏の陣へと移っていきます。長きに渡った戦いで豊臣方についた名だたる武将たちも次々命を落としていきました。

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5月7日、朝…最後まで残った武将・真田幸村には劣勢を逆転する最後の秘策がありました。…総大将の秀頼に最前線に出馬してもらい全軍を奮い立たせ、家康の首を狙おうというのです。

幸村の要請を受けた秀頼の言葉が残っています。…「出陣して一戦…討ち死にせん」(『豊内記』より)…秀頼は、自ら前線に立ち徳川方と一戦を交え討ち死にする覚悟だったのです。ところが淀は許しませんでした…結局、淀は総大将である秀頼を戦場に送り出す事はしませんでした。

静岡大学名誉教授 小和田哲男さん
「秀頼を危険な戦場に出すわけにはいかない…温存策でした。…つまり、生きていれば関白が転がり込んでくるという淀の思いがあったのだと考えます」

5月7日正午すぎ…出陣しない秀頼を待ち切れず、幸村は、家康本陣を目指し、突撃します。…しかし、奮戦むなしく討ち死に…その日のうちに大阪城は、落城します…城が落ちたあと、淀と秀頼は、僅かな友を連れて城の一画にある櫓に逃げ延びたといわれます。

5月8日、徳川方に取り囲まれ、淀と秀頼はついに自刃、直後に櫓は火に包まれました。…それは瓦を溶かすほどの激しい炎でした。

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淀47歳、秀頼23歳、運命に翻弄された母と子は、こうして散っていきました…淀が最後に残した言葉が伝わっています。

「せめて一度でいいから秀頼に天下の政治をとらせたかった」(『大阪物語』より)

大阪城で亡くなった淀と秀頼、秀頼にはこの時、男女一人づつ二人の子供がいました…淀の孫です。男子は徳川方の手によって処刑されましたが、7歳の姫は命だけは助けられました。

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鎌倉の東慶寺、ここで淀の孫娘は髪を下ろし、天秀尼という尼になります。…天秀尼が力を入れたのは不幸な結婚生活に苦しむ女性たちを救う事でした。

当時、女性の地位は低く、女性から離婚する事は出来ませんでした。天秀尼は寺に駆けこんできた女性が離婚出来る制度を幕府に認めさせました。…寺は、縁切り寺として知られ、500人以上もの女性が自由になりました。

淀の孫娘は、意外な形で沢山の女性たちを救う事になったのです。

淀と秀頼の死後、京の町でこんな手まり唄が流行ったといいます…「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、のきものいた鹿児島へ」秀頼は大阪城で命を落とさず、真田幸村の手引きで鹿児島へ落ち伸びたというのです。

鹿児島市には、秀頼のものと伝わる墓があります。…秀頼はここで幸せに暮らし、天寿を全うしたと伝えられています…最後まで秀頼を守ろうとした淀の執念がこのような伝説を生みだしたのかもしれません。

大阪駅近くの繁華街の一画にある太融寺に淀は、静かに眠りについています…淀の墓には、今もお参りする女性の姿が絶えません。

運命に翻弄されながらも乱世を力強く生きた淀、一人の女として、一人の母として、その誇り高い生き方は、400年の時を超え、多くの人々の心をとらえています。