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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

千姫 呪われしプリンセス ~家康の孫娘 その数奇な生涯

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NHK 歴史秘話ヒストリア
千姫 呪われしプリンセス ~家康の孫娘 その数奇な生涯

孫の千姫の病がまだ治りません
恐れ入りますが他人より先に
姫の診察をお願いいたします
お越しをお待ちしております。
(『徳川家康書状』より)

祖父の愛を一身に受けて育った千姫、しかしその家康自信に手によって苦悩の十代を過ごす事になるのです。

episode1
おじいさま、そんなハズでは…
政略結婚の悲しい結末

慶長2(1597)年、千姫は後の2代将軍・徳川秀忠正室・江姫の長女として生まれます。…しかし僅か2歳にして婚約させられます。豊臣家の跡取り、秀頼の元に嫁ぐ事になったのです。

当時、家康は豊臣家を支える五大老の一人、つまり家臣です。主の秀吉より従属の証しとして孫娘を差し出すよう求められた家康、いわば人質、…千姫にとっては関白まで努める格上の家への嫁入りでもありました。

親の愛情をたっぷりと注がれて育つはずの幼少時代に親元を離れ、大阪へと送られた千姫、…嫁ぎ先での大阪城の暮らしをしのばせるものが、上越市立総合博物館に残っています。

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千姫筆 猿候)
千姫が描いた絵、猿を描いた墨絵の手ほどきをしたのが当代一流の絵師・長谷川等伯です…秀頼の母・淀殿千姫を迎えるに当たり、最高の教育を施し、知性と教養のある女性に育てようとしていた事が打抱えます。

親兄弟にも会えぬまま一人、豊臣家に溶け込む努力を重ねた千姫、やがて戦国一の美女と称された祖母・お父の方の血を受け継ぎ、美しい女性へと成長して行きました。

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一方、4歳年上の夫・秀頼もたくましい青年に成長します…記録によれば、
・身長195センチ
・頭脳明晰
・教養もあり
・家臣からの信頼も厚い人物
…なにより妻を心から大切にする夫でした。

 

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   (豊臣秀頼


千姫の16歳の成人を祝う儀式でも秀頼みずから髪を切り染めてやるなど中睦まじい様子が伝わっています。

夫を愛し、豊臣家に尽くす事で徳川家との架け橋になろうと努める千姫、しかし時代は千姫の望まぬ方向へと突き進んで行きます。

慶長5(1600)年、秀吉がこの世を去って2年後、関ヶ原の戦いが勃発、この天下分け目の戦いに勝利し、政治の実権を握ったのが徳川家康でした。…豊臣と徳川の軋轢は日ごと激しくなり、ついにその対立は火を拭きます。

慶長19(1614)年 千姫18歳、両者は大阪の陣で激突、家康は20万を超える兵力で豊臣方の大阪城を攻撃、実の父ろ祖父から攻められる事になった千姫、それでも千姫大阪城にとどまります。

豊臣に嫁いだ以上その一員として、夫・秀頼、母・淀殿と運命をともにする決意でした。…しかし千姫は、ある使命をおびて自らの意志で城を脱出するのです。

大野治長が御前様(千姫)を城から出した」(『落穂集』より)

大野治長は豊臣家の重臣です…その目的は徳川家の記録によると…・

千姫は城を出て秀頼と淀殿の助命を願った」(『徳川実紀』より)

敗北が決定的になる中、秀頼と淀殿の命だけは救おうと千姫に家康との取りなしを頼んだのです。…この時すでに真田幸村など豊臣方の主な武将たちは討ち死に…城には徳川勢が入り込み、男女を問わない殺戮が行われていました。

千姫は、夫と姑の命を救えるのならと城を脱出して家康の元へと向かったのです…目指したのは家康が陣を構える茶臼山です。

千姫は指揮を執っていた家康の元へ駆け込み、秀頼、淀殿の助命を嘆願します。…その時、家康はこう返答します。

「それが千姫の願いとあらば、そのようにいたそう」(『徳川実紀』より)…この後、家康は妙な事を付けくわえます。

「父・秀忠の陣へ行き、父にも申してみよ」(『徳川実紀』より)

この頃、大阪城には火が回っていました…千姫には時間がありません。父・秀忠が陣を敷いていたのは茶臼山から2キロの場所、…しかし秀忠が千姫に会う事はありませんでした。

それどころか家臣を通じ、こういい渡したといいます。

「何を見苦しい事を言っているか、なにゆえ秀頼と共に自害しなかったか」(『徳川実紀』より)

 

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徳川秀忠


この期に及んで秀頼たちを許す事は出来ないと千姫の願いは一蹴されました。家康はあらかじめこうなる事をみこし秀忠の元へ行かせたのです。

慶長20(1615)年6月7日、大阪城落城、秀頼と淀殿は城外で自害、遺体は炎の中に消えました。約束を果たせず豊臣家を救えなかった千姫、その千姫に更なる不幸が降りかかる事になるのです。

豊臣秀頼千姫との結婚生活は12年、二人に子供はいませんでした。しかし夫の秀頼には側室との間に生まれた若君と姫がいました。

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千姫は秀頼の二人の子の助命を家康に願い出ます…しかし家康は藩徳川の旗頭となりかねないという事で若君を処刑してしまします。

しかし7歳の姫だけは千姫に免じて命を助けられました…そして幼くして出家させられ、鎌倉の尼寺へと送られたのです。


episode2
幸せになりたかった…
亡き夫に呪われた姫

元和元(1615)年 千姫19歳、大阪の陣で夫を失った千姫は江戸に戻されました。失意の中、体長も崩しがちになります。

そんな折、まだ10代だった千姫に再び結婚話が持ち上がります…死期が近づいていた家康が千姫のために選んだ相手は、本多家…本多家は家康の家臣、本多平八郎忠勝の家であり、家臣の家に将軍家の娘が嫁ぐ相手としては異例とも言える相手でした。

千姫の夫となったのは、忠勝の孫、本多忠刻、後世美男子として絵に書かれるほど眉目秀麗な若ものでした。

元和2(1616)年4月、縁談の準備を整えた家康は、婚礼を待たずにこの世を去りました…秀頼との別れから1年が過ぎた9月、千姫は忠刻と結婚、その後、姫路城に入ります。

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    (姫路城)

 

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    (本多忠刻

本多家の居城である姫路城は、美しい白亜の天守で知られた名城中の名城、記録によれば千姫が姫路城に入る時、馬500頭、お供850人が付き従った豪華絢爛なものでした。城内には千姫専門の御殿も作られたのです。

元和4(1618)年 千姫22歳、姫は初めての子供・勝姫に恵まれます…そして翌年には待望の長男・幸千代が生まれます。まさに千姫は幸せの絶頂の中にいたのです。しかし、この直後から千姫の回りで恐ろしい出来事が起こり始めます。

・元和7(1621)年 千姫25歳 幸千代 3歳で急死
・その後、千姫は流産を繰り返した
…いったいなぜ?

苦しんだ千姫がすがったのは占い…占いは衝撃的な事を告げます。子供ができないのは前の夫・豊臣秀頼の恨み…。

「…私に子供ができるたびに流れてしまうのは
貴方様のお怨みのためと占いで知りました。

ごもっともとは存じますが、
悔しいお心をお諦めください。

そして今まで貴方様の事をおろそかにしていた私を
お許しください。…」(『千姫自筆願文』)

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千姫は神仏の加護にすがろうと各地の寺社に寄進をし、建物の修理などにも努めました…しかし、秀頼の怨念はおさまらなかったのか、更なる不幸が千姫を襲います。

寛永3(1626)年 千姫30歳 最愛の夫・忠刻までもが病死したのです…亡くなったのは大阪城が落城した日と同日の5月7日でした。


episode3
愛されるより愛したい
血のつながらない娘との絆

後継ぎであった忠刻と幸千代が亡くなり、本多家は忠刻の兄弟が継ぎました…千姫は弟の3代将軍・家光の勧めで姫路を離れて江戸にもどります。

江戸城のそばに居を構えた千姫は、再び家庭を持つ事はありませんでした…出家し二人の夫の菩提を弔う事に余生を捧げようと思いを定めたのです。

穏やかに月日が流れました、そんな中、娘・勝姫が嫁いだ大名・池田光政治める備前岡山では未曽有の事態が起きていました…。

承応3(1654)年7月 千姫58歳、大雨によって岡山一帯で大洪水が発生、追い打ちをかけるように大飢饉にも見舞われ餓死者が3000人を超える大災害となりました。

備蓄米も底をつき、手立てを失っていた婿の光政と勝姫に手を差し伸べたのが千姫でした。「…及ばずながら私もお力添えいたしましょう…」 と…。

光政の記録によれば、千姫の行動は素早く、自らの私財の大半に当たる2万両の資金をすぐさま光政に送ります…更に幕府に働きかけ、全部で4万両の資金を用立てたのです…現在の額で40億円の緊急支援金です。

この40億円で光政は20万人もの領民の命を救う事ができたのです…今なお、岡山の名君として岡山の人々から尊敬、慕われている池田光政、その存在の影には義理の母・千姫の大いなる支援があったのです。

 

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(駆け込み寺、鎌倉 東慶寺


更に実の娘以上に千姫が生涯を通じて支えたのは、鎌倉にいた秀頼の遺児・天秀尼でした…20代の若さで住職となった天秀尼、当時取り組んでいたのが鎌倉時代以来、駆け込み寺として知られてきた寺の使命、女性たちの救済活動です。

当時の社会では、夫がどんなに暴力をふるっても妻の側から離婚を申し出ることは出来ません…耐えきれなくなり、逃げるしかなかった女性を身分を問わず受け入れていたのが天秀尼の東慶寺でした。

寛永16(1639)年 ある時、大きな事件が起きます…会津の大名・加藤家の家臣の妻が東慶寺に逃げ込んできました。夫が謀反の罪で加藤家に追われてきた女性、加藤家は彼女を引き渡すよう強硬に申し入れてきたのです。

「この寺に参った者はどのような者も引き渡すわけにはいきません」(『松岡東慶寺考』より)

天秀尼は身体を張って女性を守ろうとしますが加藤家はまったく聞き入れません…強引に連れ出されそうな瀬戸際で女性を救ったのが千姫でした。

千姫は、弟・将軍家光を説得、そして寺の決まり通り、女性を引き渡さなくて良いよう許可を取り付けたのです。

将軍直々のお達しで女性は救われる事になり、以後、東慶寺は幕府お墨付きの ”駆け込み寺” として広く知られるようになってゆきます。

その後、ここに逃げ込めば役人の立会いの下、女性からでも離婚できる、全国でも珍しい寺となりました。

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 (東慶寺に残る離縁状)

現在寺に残っている離縁状の出身地は様々で日本中の女性たちの避難所になっていたことが伺えます。

東慶寺 副住職 井上大光さん
千姫、天秀尼のおかげで多くの女性が新たな幸せを勝ち得ていったんだと思います」

その後、千姫は弟・家光、4代将軍・家綱の相談役として一族を支え続けます。家康の孫として徳川家の光と影を背負わされた千姫、齢70でその一生を終える時、見たものは、穏やかな太平の世でした。

寛文6(1666)年 千姫 死去(享年70)


悲劇のヒロイン千姫
今も多くの人々から慕われている

千姫天満宮 田中秀穂 宮司
「…千姫様は非常に悲運で悲しい女性と皆さんは思いがちですが、実は豊臣秀頼のも本当に愛され、二番目の夫・本多忠刻にも非常に愛された女性です。

それで千姫にあやかりたいという事で、皆さんが絵馬に書いて千姫天満宮に願いをかけているんです。…」

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  (恋愛成就・良縁)

姫路だけでなく今、千姫は各地で脚光を浴びています。

 

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茨城県水街道 千姫まつり)

 

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名古屋まつり

 

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三重県桑名・千姫折鶴祭)

呪われた運命に苦しみ、様々な地を流転しながらも人を愛する心を最後まで失わなかった千姫、その悲しくも力強い姿が今、人々の心を引きつけているのです。