NHK 歴史秘話ヒストリア
美しき武将 戦国 アニキの秘密 長宗我部元親
姫若子(姫のような若者)…実は、長宗我部元親のニックネーム荒々しい戦国武将らしからぬもの、家臣たちを魅了した強く美しい兄貴の秘密に迫ります。
episode1
登場!美しく強いアニキ ~元親 VS. 信長~
長宗我部家は土佐の国、今の高知県の小さな領主でした。…長宗我部家の家臣が着けていた鎧(一領具足)はいたってシンプルなもの普段は農業をしていたものが多かったと言われます。
土佐の国は山がちで農産物の収穫が少なく、武士たちも農作業をしなければ食べて行けないほど貧しい国だったのです。
困窮していた長宗我部家の跡取りとして生まれてきたのが元親です。記録によれば若い頃の元親は、…「色白で性格も柔和、姫のような美しい若君」(『土佐物語』より)
家臣からこんな風にささやかれたとか…
「まるで姫のような若君」
「あれでは戦働きなど到底できまい」
「お家の行く末が気がかりじゃ」
…しかしいざ戦に出て見ると意外にも元親は大活躍、槍を自在に操り、周囲が驚くほど目覚ましい働きを見せます。
22歳で家督を継いだ元親、大きな戦の前に戦いをすべきかどうか家老たちと議論になりました…この時、元親は意外な行動に出ます。
普通ならば意見を聞く事もない身分の低い家臣の所へ自ら赴き、意見を求めたのです…家臣の意見を聞き、戦う事を採用、家臣は意気に感じ一丸となって敵城を落としたのです。
頼れるアニキ元親の元、家臣たちは鉄の結束でまとまり、長宗我部家は瞬く間に土佐を統一します。…このアニキ抱いている野心も桁外れのものでした。
元親は土佐を統一するとすかさず四国各地へ進撃を開始します…阿波、今の徳島県を征服、その後、四国の主だった大名たちを次々と従わせ天下取りへ名乗りをあげたのです。
元親はその知力もずば抜けていました…
1.朝廷、室町幕府へ接近
2.25歳の時には、信長の重臣、明智光秀の家臣の娘を妻に迎えています
3.中国の毛利、宇喜多、紀伊の雑賀衆など広い範囲の勢力と同盟
…天下取りへの布石を打ったのです。
三重大学教授 藤田達生
「政治的なセンスは抜群です…領国を拡大して安定的な支配をするためには、中央とのパイプ、人脈を持っておかねばならない」
戦国武将として完璧と思われる力を持っていた元親、その元親が期待をかけていたのが長男の信親です。…信親に英才教育を施します…京都から一流の家庭教師を招き、その才能を伸ばして行きました。
信親は身長185センチのたくましい青年に成長、父にいて色白で性格も柔和、礼儀正しい若武者へと育ちました。…しかし元親の前に強大な敵が立ちはだかります…織田信長です。
この頃、各地に勢力を伸ばしていた信長にとって四国で急成長する元親は無視できない存在、天正9年、元親に領地を引き渡すよう、申し入れてきたのです。
対する元親の決断は、信長と決戦する事でした…通告を拒絶する元親に対して出撃の構えを始める信長軍、美しき親子は絶体絶命の大ピンチを迎えます。
天正10(1582)年6月2日、決戦間近、本能寺の変が勃発、信長は家臣明智光秀の謀反によってあえなく命を落とします。…運まで見方に付けた長宗我部親子、天下取りの道が開けたかのように見えました。
ここでミステリー…
本能寺の変が起きたのは6月2日
この6月2日という日付は信長軍が元親を攻めるため四国へ出発する日だったのです。
三重大学教授 藤田達生
「信長の四国攻めの軍隊が出陣するその時を狙ってクーデターが起きている。やはりそこには、光秀と元親に関係性があったのだという可能性は捨てきれませんね」
実は、光秀と元親の妻は親戚関係、光秀はつながりの深かった元親の領土を守るため、信長を討ったとも考えられるのです。
episode2
華麗なるおもてなし作戦 元親 VS. 秀吉
信長亡き後、後継者となったのが豊臣秀吉、巨大化する長宗我部家の攻略に挑みます。
天正13(1585)年、秀吉は11万もの大軍で出陣、長宗我部家を一気に攻め滅ぼそうと三方向から四国に攻めよせました。
7月、豊臣勢は伊予国、現在の愛媛県西条市に押し寄せてきます。その数3万5千、広い海岸線を守らねばならない元親勢は、僅か2千、…秀吉軍になす術もなく全滅、他方面でも秀吉軍に圧倒されます。
この戦況を見、元親は10年以上かけて切り取ってきた阿波・伊予・讃岐を全て秀吉に差しだし、土佐一国に退く事になったのです。
元親は、逆に秀吉の懐に入ろうと決意します…そこで元親が行ったのは、…「太閤様へ進上」(『元親記』より)…秀吉への贈り物攻勢でした。しかしそこはアニキ…ただの贈り物ではありません。
なんと選んだのは、クジラ丸ごと一頭、土佐のクジラを船で運び700人に担がせて贈答品として大阪城の中へ持ち込んだのです。
更に海の幸、山の幸100人前を秀吉に献上、これには秀吉も大喜び…まんまと秀吉のお気に入りとなったのです。
天正14(1587)年、秀吉と九州・島津氏との間に戦が勃発、秀吉は大友氏を救うため軍勢を送る事を決めます。元親・信親親子も秀吉軍として戦場に向かったのです。
そして12月12日、大分市郊外の戸次川、元親、信親は秀吉から派遣された指揮官(軍監・仙石秀久)の元、島津氏との戦いに臨みます。
島津勢2万に対し、豊臣勢6千、元親は援軍が来るのを待つべきと指揮官に訴えるも、軍監・仙石秀久は聞き入れず戦闘が開始されます。
凍てつく冬の川を渡り、島津の大軍の中に突撃する元親と信親、しかし待ち受けていた島津勢に囲まれ大苦戦、やがて親子は離ればなれに、孤立した長男の信親、それでも…「二十四五人なぎ倒す」(『土佐物語』より)。
しかし多勢に無勢、…長宗我部信親 討ち死に(享年22)
最愛の息子・信親の死、この悲劇をきっかけに長宗我部家はもろくも崩れて行く事となるのです。
信親が亡くなった戸次川の戦いは、島津家の侵略から大分の人々を守るための戦いでした…信親は大分で葬られ、人々を救った恩人として語り継がれています。
信親の墓がある地区では毎年、合戦の有った12月に100人が集まり慰霊祭を行っています。
郷土史研究家 藤田洋一郎さん
「わざわざ四国からやってきて、しかも優秀な長男である信親を亡くして助けに来てくれた事を感謝しています。だから今も地元の人たちは、慰霊祭を続けているんです」
信親に加え、多くの長宗我部の家臣も亡くなっています。その数500人以上…。
episode3
父から子へ! 受け継いだ不屈の魂 盛親 VS. 家康
長男の死をきっかけに急速に没落してゆく長宗我部家、そんな中、父や兄の意志を継ぎムカデのようにしぶとく踏ん張った息子がいました…長宗我部一族最後の戦いです。
戦で長男を失った元親、かつて家臣思いだった優しさは影をひそめ、激しい性格に変貌します。それがハッキリ形として現れたのが後継者問題、信親亡き後、普通ならば次男が後継ぎになるところ、四男・盛親に決めます。
盛親この時、14歳…盛親は気が短く荒々しい性格で家臣たちは猛反対します…そして元親は代々家を支えた重臣二人を切腹に追い込み、更に盛親の兄を幽閉します。
慶長4(1599)年 長宗我部元親 死去(享年61)
この後、長宗我部家は、家臣を束ね切れていない、盛親に託させる事になったのです。
慶長5(1600)年 関ヶ原の戦い…東西合わせて18万の兵が激しい争いを繰り広げたこの戦、盛親は6千の兵を率い西軍側に就きますが、戦場で迷いを見せ戦闘に加わる事が出来ず、西軍側の戦力にはなりませんでした。
結局戦いは東軍の勝利に終わり、徳川家康が天下を手中に収めます…西軍に就いた長宗我部家は家康によって取り潰され、盛親は土佐を追われた。
盛親はその後、京の都で徳川の監視下で暮らす事になります…手習いの師匠として生計を立てる盛親、衣食にも困り果てる身になりました。
こうした暮らしは荒々しかった盛親の性格を穏やかなものに変えて行きます。
その頃、盛親が出した家臣への手紙が残っています…
「最近の私は日々の暮らしですっかり擦り切れてしまいました。しかし貴方は、私の事は気にせずどうぞ新しい主を見つけて仕えてください。何より身体をいたわる事が大切です」
14年に及ぶ京での暮らし、盛親は元家臣たちの身を案じる事の出来る一回り大きくなっていました。
慶長19(1614)年、盛親にとって思いがけないチャンスが巡ってきます。…戦国の最後の戦いとなる大阪の陣、大阪城にこもる豊臣家を家康が滅ぼそうとしたものでした。
盛親の元へ大阪方から誘いが来ていました…勝利の暁には土佐一国を褒美として与えるというものです。
盛親は大阪城へ向かいます…盛親立つ、その報せを聞き、ちりじりになっていた元家臣が次々と馳せ参じます。その数5000…
慶長20(1615)年5月6日、決戦の日、盛親率いる長宗我部軍5000は、家康本陣を目指します…関ヶ原の時とは打って違って雄々しく指揮をとる盛親の元、一丸となった盛親軍は徳川の部隊を壊滅させる奮戦を見せます。
しかし盛親の健闘むなしく翌日大阪城は落城、豊臣家は滅び、盛親は再び敗者となったのです。大阪と京都を結ぶ街道の京都府八幡市、戦の直後ここに潜伏します。
盛親はここで京に向かう家康の首を狙ったのです…しかし盛親は捕えられます。
長宗我部盛親 享年41
最後の言葉が伝わっています。
もし我が運が良ければ
天下は豊臣家のものだったに違いない
(『韓川筆話』より)