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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

利家とまつ 夫亡き後のドラマ 新史料が明かす 加賀100万石の苦闘

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NHK 歴史秘話ヒストリア
利家とまつ 夫亡き後のドラマ 新史料が明かす 加賀百万石の苦闘

今から400年前、栄華を極めた加賀100万石、その礎を築いたのは戦国一のおしどり夫婦、前田利家と妻まつです。

episode1
幼なじみの二人が百万石夫婦に!
まつが生まれたのは戦国時代の半ば、尾張の下級武士の娘でした。

天文19(1550)年 まつ4歳の時、父親が亡くなり、親類の家に引き取られます。そこで10歳年上の従兄・利家と出会うのです。幼なじみの二人はやがて夫婦となり、戦国の世を大きく変えて行くのです。

永禄元(1558)年 まつ12歳のとき結婚、翌年女の子が生まれます。利家が仕えたのは織田信長、…この時期、利家に中のよい同僚ができます。…木下藤吉郎、後の豊臣秀吉です。…秀吉の妻・おねも含めて家族ぐるみの付き合いとなりました。

子沢山だった利家とまつに対し、子供がいなかった秀吉とおね、まつは娘の一人を秀吉の養女に…両家は堅く結び付いて行きました。

天正9(1581)年、信長の勢力が拡大するに従って利家も出世、ついには能登の国を任され一国一城の主になります。

天正10(1582)年6月 まつ36歳、本能寺の変明智光秀の謀反により、織田信長が最後を遂げたのです。

その後、信長のあと跡目を巡り、秀吉と越前(福井)の柴田勝家が対立、利家は勝家の与力、勝家に付くしかありません。

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天正11(1583)年4月 利家は柴田軍に従い賤ヶ岳で秀吉軍と対峙、…しかしこの賤ヶ岳の戦いは秀吉軍の圧倒的な勝利で終わりました。

秀吉は、大軍勢を率いて北陸に追撃、利家の態度次第では攻撃するつもりで利家の城・越前府中城に乗り込んできました。

秀吉に顔向けできない立場にあった利家、このとき夫に代わって応対したのが妻のまつでした。…自分の夫を敗った敵将・秀吉に対してまつがかけた言葉は、…

この度の御戦勝おめでとうございます(『川角太閤記』より)

なんと戦勝祝い、更に養女に出している娘の話に花が咲き、…そこで秀吉が本音を漏らします。

来る勝家との決戦には
利家殿のお力添えをいただきたい(『川角太閤記』より)

実は内心、秀吉は、親友の利家を味方につけたいと思っていました。…まつは即座にこの申し出を了承、長男・利長にも参戦させ前田家一丸となって秀吉を支える事を示したのです。…利家・利長親子は、秀吉軍の戦法として出陣、柴田勝家の城を攻め大勝利をおさめます。

天正11(1583)年4月、この功績で賜ったのが加賀の金沢城、利家は後の加賀100万石の第一歩を踏み出したのです。…その後、前田家は豊臣家の主力として数々の戦いで活躍します。

天正18(1590)年、秀吉は天下統一を達成、加賀前田家は豊臣家の最も重要な大名となったのです。…しかしその後、秀吉が死去、更に夫の利家も病に倒れ、まつと前田家の運命は、大きく変わって行く事になるのです。


episode2
子供たちの為に! まつ 人質の道へ

富山県にある射水市新湊博物館、前田家の領地だったこの地で3年前、個人から寄贈された史料の中に、まつの書状45点が含まれていたのです。

 

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射水市新湊博物館主任学芸員 野積正吉さん
「400年も経って、21世紀になって45点も見つかったということは、大変貴重なことです」

慶長3(1598)年8月 まつ52歳、豊臣秀吉死去…最後まで案じていたのは、僅か6歳だった跡取り・秀頼の行く末でした。…死ぬ間、秀吉は秀頼の後見役を、利家とまつに託します。

慶長4(1599)年3月、秀吉の死の翌年、利家も体調を崩します。死期を悟った利家は、病床にまつを呼び寄せ遺言を筆記させました。

長男・利長は大阪にとどまり
次男・利政は金沢を守れ

もし、秀頼様に謀反が起きたら
兄弟合流して戦え

利長は、3年間は金沢に帰郷してはならない
(『前田利家の遺言状』より)

慶長4(1599)年閏3月 まつ53歳、利家死去、…待っていたかのように豊臣政権の五大老の一人、徳川家康が動き始めます。

秀頼から実験を奪おうと画策する家康にとって目ざわりは、後見役の前田家の存在、利家の後を継いだ利長に…

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ここ数年、お忙しかったでしょう
ここは休養方々 お国に帰り
新領主として必要な要務を
片付けたらいかがでしょうか
(『三壷聞書』より)

まつは、家康の顔を立ていったん金沢に利長を帰します。…しかし、それが間違いだったのです。…利長が金沢に帰ると家康暗殺計画が発覚、…家康は暗殺計画の黒幕を前田家と決めつけました。

家康は、加賀征伐を決定!…慌てた利長は金沢から使者を送り、弁明…。しかし、家康は聞き入れず、和解の条件として…

身の潔白を証明したければ
まつを江戸へ送れ
(『杉本義隣覚書』より)

 

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家康は、まつを大阪から遠く離し、人質として自分の領国である江戸におこうとしたのです。…まつが江戸に行けば、利長が謀反をたくらんでいるという疑念も晴れ、上方の騒動も治まる…そうすれば加賀征伐を中止してやろうという理屈です。

…まつの苦悩は、次女が残した記録に残っています。

世のため、秀頼様のためなどど
家康に言いそそのかされて
江戸に行く事になりました

老い先短いこの年齢で
ひどいことだと思い迷いました

しかし、秀頼様のため
世の中のため
そして我が子を思う心の愚かさから
自ら進んで江戸へ行こうと
決心しました
(『東路記』より)

出立の朝、まつは長男・利長にこう言い残します。

人質に行くからには覚悟があります
私のために家を潰してはなりません
私を捨てなさい
(『桑華字苑』より)

もしお家に大事が起こった時には、容赦なく自分を見殺しにせよ。まつは強い覚悟を息子に示し、江戸に向ったのです。


episode3
子供たちに一目会いたい!
まつが送り続けた手紙

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まつの子供は11人、娘は9人
長女・次女:家臣
四女・豪:宇喜多秀家
七女・千代:細川家
みな幸せな暮らしを送っていました。…ところが天下分け目の関ヶ原…。

今回新発見された45通の手紙、その全てが、まつが人質として江戸に言った後、七女・千代夫婦に送られた手紙です。…内容のほとんどは、千代をはじめ離ればなれになった子供たちを必死に支えようとするものでした。

慶長5(1600)年6月 まつ54歳、家康の要求通り、まつは江戸に到着します。この時、家康は天下の行方を決める、関ヶ原の戦いをひかえていました。

実は、家康がこの決戦に勝つためには、前田家の、まつの存在が極めて重要でした。100万石の領地を持ち、豊臣家恩顧の大名たちの信望厚い前田家を見方に付けてしまえば体制は決したも同然です。

家康は、まつの長男・利長を確実に味方に付けようと甘い言葉で協力を要請します。

来るべき戦いに勝ち
上方を平定したら
まつ殿をお迎えにあがらせましょう
(『能美江沼退治聞書』より)

利長は悩みます…家康に味方する事は、大阪城で秀頼を守れという父の遺言に背く事になります。しかし、家康に手向かえば、人質になった母は殺されます。悩み抜いた末、利長が選んだのは、…

母を捨てる事は、いやにて候(『村井重頼覚書』より)

利長は、家康方に付く決断をしました。

慶長5(1600)年9月、関ヶ原の戦い…前田家が家康方についた影響は大きく、名だたる武将が東軍につきました。結果は東軍が僅か1日にして勝利、家康が天下を手中に収めます。

この戦いにより、家康に味方した長男・利長の前田本家は守られました。しかし、まつの子供たちの中には、家康に敵対する立場にあった者も多く、その運命は暗転します。

・次男・利政…家康の呼びかけに応じなかったため、領地没収、京都で謹慎
・四女・豪…夫・宇喜多秀家関ヶ原で西軍に付き、敗戦…八丈島に流刑

七女・千代は、西軍の人質にされそいうになり、他家に身を寄せていた…この事態を受けて、まつが千代に指示したのが…危険な大阪を出て加賀に向えということでした。

いよいよ進退の
覚悟をしなさい
この度が好機です

仮病でもなんでもいい
使いなさい
(『まつの45点の手紙』より)

慶長8(1603)年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、江戸幕府を開きます。…戦いの前の約束なら、まつは帰国できるはずでした。…しかし、…

追伸、私の帰国については
まだ何の連絡もありません
(『まつの45点の手紙』より)

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家康は、江戸幕府を開いた後も、まつを帰そうとしませんでした。理由は、依然として秀頼が大阪に健在だった事。…豊臣家をけん制する上で、まつにはまだ利用価値があったのです。

まつは、子供たちに手紙を書き続けます。

次男・利政関係
「利政赦免の件、家康さまが加賀の国の端にでも住まわしてやれ、とおっしゃいました」

しかし、結局この赦免は撤回され、実現しませんでした。

宇喜多秀家関係
八丈島にいる、宇喜多秀家殿の元へ、帷子・料紙などを調え、米も数百俵ほど送るよう手配しました」

国元の長男・利長が病に倒れます。

利長へ
「どのような状態であっても利長は、生きていてくれさえすれば良いのです。…一目、利長に会ってから死にたい」

慶長19(1614)年 まつ68歳 利長死去(享年53)…家康が、まつを解放したのは、その直後のことです。影響力の大きかった利長が世を去った事で、その母・まつを江戸にとどめておく必要が無くなったたためでした。

翌月、68歳となっていた、まつは、加賀に帰郷、人質として江戸に向ってから15年の歳月が流れていました。

ついに生きて会えなかった長男をしのぶ、まつ…しかし、まつが人質になって家を守り抜いたため、前田家は奇跡的に取り潰しを免れ、百万石の領地を維持し続けたのです。

三年後、まつは、加賀の繁栄を見届け、71歳で世を去りました。

まつ死去(享年71)