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完全再現! 川中島の戦い~上杉謙信VS.武田信玄 名勝負に迫る

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NHK BS歴史館
完全再現! 川中島の戦い上杉謙信VS.武田信玄 名勝負に迫る

越後の竜、上杉謙信…戦では戦国随一の43勝2敗25引き分け、ほぼ負け知らずの天才、人呼んで”戦の神・毘沙門天の化身”。…甲斐の虎、武田信玄風林火山を旗印に領土を次々に拡大、あの織田信長が最も恐れたという名将…。

最強という呼び声が高い両雄、この二人が激突したのが川中島の戦いです。…川中島の戦いは、その数5回、12年にも及んだ、まさに宿命のライバル対決。

中でも戦国きっての激戦としてドラマや小説でも人気が高いのが、第4次・川中島の戦いでした。…その魅力は、両雄知力を尽くした激しい戦術の応酬、信玄が繰り出すは、軍師・山本勘助の必勝戦術、キツツキ戦法。

対する謙信は、見るものが目を疑う幻の必殺技、車懸かりの陣、…理詰めの信玄、ひらめきの謙信、その勝負の行方は!…。


完全再現!川中島の戦い
上杉謙信VS.武田信玄

川中島の戦いの魅力は、あの織田信長ですら気を使い、恭順の姿勢をとった武田信玄上杉謙信が激突した戦いですから、天下統一の戦いよりも川中島の方が戦いとしての価値は高いのです。

信長は、もし謙信が上洛するなら私が露払いいたします…どうぞ来てくださいと言ったとか…それだけ強かった二人です。

今から460年前、天下統一を目指す織田信長は、まだ20歳、うつけと馬鹿にされ天下取りなどほど遠かった頃、信濃の国、現在の長野県北部で後に戦国の名勝負として語り継がれる名勝負が始まりました。…5回にわたって繰り広げられる川中島の戦いです。

ここに先に攻め込んだのは武田信玄、優れた戦略で領土を拡大し続ける大名です…信玄の本拠地は甲斐の国、現在の山梨県、領土を広げることは武田家の当主、信玄にとっては死活問題でした。

実は武田家の内部では家臣の力が強く、彼らの支持がなければ大名といえども権力が維持できません…常に新しい領土を与え続けなければ家臣は武田家を離れてしまうのです。

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当時、武田家の東には北条、南には今川という強大な大名がいました…そこで信玄は、強い勢力がいない信濃へ侵攻、着々と領土を広げながら北上、現在の新潟県、越後との国境、川中島あたりまで迫りました。

これを迎え撃ったのが上杉謙信、侵略を受けた地元武将たちを助けるべく越後から援軍としてやってきたのです。…謙信最大の長所、戦の才能です。

自称、戦の神・毘沙門天の生まれ変わり、先頭を切って敵に切り込み大胆な戦術を繰り出しては、負け知らず…戦のカリスマ、それが上杉謙信でした。

天文22(1553)年
第一次 川中島の戦い…謙信24歳 信玄33歳
先に北信濃を占領した武田信玄、そこへ攻め込み拠点を奪い返していく上杉謙信…うわさ通りの謙信の強さに信玄は無理な戦いを避け、僅かな小ぜりあいの後、甲斐に撤退してしまったのです。

二人の小手調べともいうべき記念すべき最初の戦いは、謙信が1勝といったところでした。…ところが川中島一帯を占領した謙信は、意外な行動に出ます。

信玄から奪った地域を我が物にせず地元武将たちに返還、そのまま越後へと引き上げてしまったのです。

川中島の戦いは、家臣のために領土を広げる信玄と人々を助けようとする謙信の戦い…戦場を舞台にまさに正反対の個性がぶつかり合ったのです。

天文24(1555)年
第二次 川中島の戦い…謙信26歳、信玄35歳
2年後、領土拡大を諦めるわけにはいかない信玄は、謙信がいない北信濃の制圧に再び動き出します。…第二次川中島の戦いです。

今度の信玄は、巧みな外交戦略を駆使します…目を付けたのは越後と川中島の間にある善光寺でした。信濃北部の武将たちに絶大な影響力のある善光寺を取り込むことで地元の武将を見方に引き入れる事に成功、戦わずして勢力を拡大していきます。

この北信濃を奪還すべく謙信出陣…上杉、武田両軍は犀川を挟んで睨み合いとなります。

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どちらも手を出さないこう着状態、両軍戦いを始めないのは切実な事情がありました…。

歴史家 平山優さん
戦国大名は、すぐに戦いをづると思っている方が多いと思うのですが実際には、出来るだけ決戦を避けていたのです。兵士の補充は簡単じゃないのです。しかも亡くなる兵隊は熟練者が多いので戦いを繰り返せば軍隊は弱くなるのです…よほどの事がなければ開戦に踏み切りません」

睨み合う事200日、疲弊の極みに達した両軍は、休戦協定を結んで双方撤退します。…第二次川中島の戦いは、結局、引き分けに終わったのです。

弘治3(1557)年
第三次 川中島の戦い 謙信28歳、信玄37歳
更に2年後、またしても先手を打ったのは信玄です。…1月、越後と川中島を結ぶ山が雪で覆われ、謙信が出陣できない時をねらって信玄は北信濃に進出、占領したのです。

謙信は、休戦の約束を破った信玄に激怒、知人での手紙でこう決意を語っています…「武略をめぐらし、信玄を引き出して一戦を遂げる覚悟」(謙信の手紙より)

4月雪解けとなるや謙信は信玄と決着をつけるべく川中島に出陣、しかしその謙信を策士信玄は、巧みな罠に引きづり込みます。

謙信が攻め込もうとするとはぐらかすように距離を開けて戦いを避ける…そんな動きを切り返し、謙信の勢いを殺いでいきます。…この状態が続く事、5か月、謙信は信玄に手を出せないまま9月、越後へと撤退します。

信玄は北信濃の領地拡大に成功したのです…第三回は信玄の作戦勝ち!…ここまで3戦して一進一退のごかく…異なる個性をぶつけながらライバル心を高めた両雄は、運命の激突、第四次川中島の戦いへと向かって行くのです。


運命の激突
第四次川中島の戦い

この二人、計5回、12年に渡って川中島で争う…普通は、勝てないと思ったら和睦交渉です…しかし、信玄は海がほしかったのです。

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太平洋側は今川と北条のもの…信玄としては日本海しかなかった…それと海運を考えた時、太平洋側に航路はなかった、当時の中心は日本海だったのです。…川中島から日本海まで直線距離で80キロさかない…目と鼻の先なのです。

第四次、川中島の合戦を最も詳しく描いた甲陽軍鑑、武田側の戦略や戦術を記した戦術書で史料の信ぴょう性には疑わしい点もありますが信玄、謙信、最強のライバル対決の魅力をあますとこなく伝えています。

甲陽軍艦によれば、第4次川中島の戦いは、意外な形で始まりました…4度目にして初めて謙信が先に仕掛けたのです。

永禄4(1561)年
第四次 川中島の戦い 謙信32歳、信玄41歳
舞台となったのは千曲川犀川の間を中心とした一帯、ここには武田軍の前線基地、海津城があり常時3000の兵が駐屯していました。

そこに上杉軍1万3000が軍勢を進めたのです…この時、海津城に信玄はいません。城攻めには絶好のチャンス…しかし、ここで上杉軍は海津城に向かわず素通り、3キロ離れた妻女山の上に陣を張りパタリと動きを止めてしまったのです。

女山は標高400m、海津城の動向を見下ろせる場所にあるものの、そこは武田が占領する地域のど真ん中、回りを囲まれれば逆に不利に陥ります。

そして謙信に遅れる事、8日(8/24日)、信玄が川中島にやってきました…信玄は定石通り、妻女山の麓に着陣、越後からの補給路を断ち、兵糧不足に追い込むことで上杉軍の動きを誘います。

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ところが謙信は、妻女山から動きません…有利なはずの武田軍に逆に苛立ちがつのります。…なぜ謙信は動かないのか…結局根負けしたのは信玄でした。

5日後(8/29日)信玄は海津城に引き、戦いは仕切り直しとなったのです。

信玄が海津城に入って数日、越後への道が解放されても謙信は妻女山から動こうとしませんでした。…謙信の意図が読めない信玄は、なかなか次の手が打てません。

10日後、ついに自ら動く事を決めた信玄は、必勝の策を側近に求めます…その側近こそ伝説の天才軍師、山本勘助です。

微動だにしない上杉軍を山から追い出す山本勘助が考えた策、人呼んでキツツキ戦法、木をつついて中にいる虫を捕獲するキツツキ…この作戦は、まさに敵をつつき出すものでした。

まず兵を本隊と別働隊に分けます…別働隊が上杉軍に背後から接近、本隊よりも多い1万2000もの兵を山に登らせ奇襲するという常識破りの作戦です。

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大軍勢で攻めれば上杉軍は逃げるように山を下り、越後に向かうに違いない…そこを川の向こうで待ち受ける信玄の本隊が一網打尽にするという作戦でした。

9月9日深夜、1万2000の別働隊が海津城を出発、上杉軍が居座る妻女山に向かいます…ところが妻女山で別働隊が目にしたものは、もぬけの殻になった上杉陣営…上杉軍1万3000もの大軍はどこへ消えたのか?

信玄の作戦、キツツキ戦法は謙信に見破られていたのです…実は信玄は大きなミスを犯していたのです。…それは煙でした。数時間前、謙信は、信玄がいる海津城から立ち上る煙がいつもより多い事に気付きます。

謙信:「あれは兵に持たせる飯を準備しているに違いない」…炊飯の煙で謙信は、信玄が奇襲を仕掛けてくるのを察したのです。…25日間、妻女山で沈黙を続けた謙信は、ついに動きます。

夜9時、武田軍が近づく前に上杉の軍勢は密かに山を降り始めました…1万3000の兵は息をひそめ川を渡っていきます。…謙信の軍勢はいったいどこへ向かったのか。

永禄4(1561)年9月10日、早朝の川中島には濃い霧が立ち込めていました…信玄の本隊は別働隊に追われて山から逃げてくるはずの上杉軍を待ち構えていました。

やがて夜が明け、霧が晴れていった時、信玄は我が目を疑いました…上杉軍が整然と目の前に並んでいたのです。

信玄が挟み打ちを狙うのを見通したのか…謙信は更に裏をかき、信玄の本隊を攻める体制を整えていたのです。

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上杉軍1万3000に対して、武田軍本隊は8000、…キツツキ戦法敗れたり、信玄と謙信、いよいよ決戦の時を迎えます。

ついに向かい合った上杉、武田の両陣営、この時、武田軍は横に広い陣を敷いていたといいます…「鶴羽の陣」という戦国時代によく用いられていた陣形です。

「キツツキ戦法で山から追われた上杉軍は、ちりぢりになって山から追われてくるはず」…そこを鶴の翼のように広げた軍勢で一網打尽にするための布陣でした。

しかし、謙信に裏の裏をかかれたのです…絶体絶命の信玄…ところが前線から信玄に意外な報告が入ります。

伝令:「申し上げます。上杉軍が撤退を始めました」…謙信は、有利な態勢で一旦、こちらに向き合ったはずなのに本国越後に逃げ出そうと言うのか。

信玄:「そんな馬鹿な」…さらに上杉軍の動きを問う信玄、家臣の説明によると上杉軍の動きは謎めいたものでした。

伝令:「一隊が我が方に押し寄せてきては通り過ぎ、また次の隊が寄せては通り過ぎながら越後の方へ動いております」…これを聞いた信玄、戦略家の本能が危険を察知します。

信玄:「上杉軍は撤退しているのではない! その動きは『車懸かり』といって回転しながら本陣が自らぶつかってくる決戦のための戦術じゃ…謙信は今日、勝負をつける覚悟に違いない」

信玄が見破った上杉の戦法『車懸かりの陣』とはどういうものだったのか?…実は、車懸かりは、甲陽軍鑑以外、記録に残っていない正体不明の戦術です。

僅かな記述を元に従来は、このようなものだったと推測されています…本陣を中心に渦巻状に回りながら敵の正面を攻撃、前線に立つ兵を入れ替える事で常に元気な状態で攻撃できるのがメリットとされました。

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しかし一度に戦える兵の数が少ないことや、戦場でこの複雑な陣形を保つ事が難しい事から、非現実的な架空の戦術とも言われてきました。

車懸かりの陣は『甲陽軍鑑』の創作か?

中国軍事史研究家 来村多加史さん
「私はあったと考えます。『車懸かり』は周囲が見えない中での移動する陣形だと考えます…霧の中や夜に全部隊に行き渡る命令は単純でなければならない…それは『前の者について行け』です…見えないままで動けるのは円陣しかないのです」

シンプルな円なら陣形を保ちながら移動が可能となります…円陣で本陣を守りながら移動、その上この陣形は敵と出合った時に本領を発揮すると来村多さんは言います。

中国軍事史研究家 来村多加史さん
「防衛にも使える、攻撃にも使える謙信の素晴らしさ、天才を感じました」

『車懸かりの陣』対『鶴羽の陣』…上杉軍1万3000と武田軍8000が、ついに八幡原で激突したのです…ここまでは完全に上杉軍ペースです。

戦力も少ない…意外な展開で動揺もある…しかし、武田軍は持ちこたえます。


攻める謙信、守る信玄

そしてついに川中島の戦いのクライマックス、信玄、謙信の一騎打
上杉軍1万3000に対して、別働隊を切り離している武田軍は8000…次々と押し寄せる上杉軍の大軍勢に武田の陣形が崩れていきます。

一方、キツツキ戦法で妻女山に向かっていた1万2000の武田別働隊は、全速力で本隊の元に向かっていました。

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しかし、それを察知した上杉軍が川を渡らせまいと立ちふさがります…別働隊は、なかなか本隊の元へたどり着けません。

その間にも武田軍では死傷者が続出、信玄は頼りにしていた軍師の山本勘助や弟・武田信繁までも失います。

「敵味方入り乱れ、突きつ突かれつ斬りつ斬られつ…ある者が首をとって立ち上がれば、その首は我が主なりと名乗って槍で突き伏せるものあり…またそれを見て、その者を斬り伏せる者あり」(『甲陽軍鑑』より)

両軍入り乱れた血みどろの死闘、…乱戦を切り裂いて、異形の武者が飛び出した…。

「萌黄色の胴肩衣を着た武者が白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺ほどの刀を抜身に持ち、信玄公のもとへ真一文字に乗り寄せて三太刀切りかかったが、その切っ先ははずれ、信玄公は軍配団扇でこれを受け止めた…後で聞けばこの武者こそ謙信であったという」(『甲陽軍鑑』より)

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川中島の戦いのクライマックス、信玄と謙信の一騎打ち…後に数多くの絵が描かれるほどの名場面、…しかし本当に大将同士の一騎打ちなどありうるのでしょうか?

実は、江戸時代に書かれた上杉家の回想録には、異なる様子が記されています。

「荒川伊豆守馳来り、信玄ト見スマシ三太刀マテ討共不徹」(『上杉家御年譜』より)…信玄に切りかかったのは謙信ではなく、その家臣、荒川伊豆守だったというのです。

やはり信玄、謙信の一騎打ちは架空なのか…一方で興味深い記録が残っています。…謙信宛に友人が書き送った手紙には、川中島の直後、謙信の戦いを伝え聞きこう讃えています。

「謙信殿は、こたびの戦いで自ら太刀打ちに及ばれたとのこと天下の誉れです」(『友人・近衛前嗣から謙信宛書簡』より)

壮絶な乱戦の中、大将である謙信が自ら刀を振るい、戦わなければならなかった事は確かだったのです。

本陣まで攻め込まれ、敗北寸前の武田軍、ところが午前10時、武田の別働隊1万2000がようやく到着、上杉軍に向けてなだれ込みました…形成は一気に逆転します。

あと一歩というところまで信玄を追い詰めた謙信、しかし、1万2000という圧倒的な敵を前に退却を余儀なくされます。

4時間に及んだ戦いは、武田勢が川中島を守り切る事で終わりました。

武田の重臣たちまで打ち倒し、本陣に迫った上杉…川中島に踏みとどまった武田…甲陽軍鑑には前半は謙信、後半は信玄の勝利と書かれています。

一説には、この川中島の戦いにおける死傷者の割合は、8割以上、それは日本史上、他に類を見ないほど犠牲多き戦いでした。両軍死傷者 2万7000人(戦闘参加者3万3000人)

その3年後、5度目の戦いは、両軍睨み合うだけに終始します…熾烈を極めた第4次川中島の爪痕は、あまりに深かったのかも知れません。