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天下無双の交渉術 太原雪斎の交渉術

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NHK 知恵泉(ちえいず)
天下無双の交渉術 
戦国のハードネゴシエーター 太原雪斎の交渉術

時は戦国、名将と言われた人物には、必ず彼を支えた名軍師の存在がありました。
武田信玄 ⇒ 山本勘助
豊臣秀吉 ⇒ 黒田官兵衛
そして…同じ戦国の世で駿河今川義元を支えた名軍師が太原雪斎です。

もし彼が生きていれば
桶狭間の戦い
織田信長に今川が
敗れる事は
なかったであろう

そう惜しまれたほどの人物です。…雪斎が生きた時代、今川家は武田、北条といった強敵に接し、いつ攻め込まれてもおかしくない非常事態にありました。

この難問を解決したのが雪斎でした。…卓越した交渉力で周囲の大名たちと絶妙な関係を築き、今川家最強の時代を作り上げたのです。

 

知恵その一
相手が求めているものを知れ

静岡市太原雪斎は、明応5(1496)年、この地に拠点を置く今川家の忠臣、庵原家に生まれました。…かつてこの地方最大の伽藍を誇った禅寺善得寺、雪斎は後継ぎではなかったため、僧になるべく9歳の時、この寺に修行に入りました。

若い頃から非凡な才能を認められた雪斎、その後、京都・建仁寺に移ります。厳しい修行の傍ら、雪斎は孫氏の兵法などの書物を読みあさったといいます。

雪斎が27歳の頃、その評判を聞きつけた今川家の当主、氏親から駿河に戻るよう要請されます。氏親の5男・方菊丸の教育係を依頼されたのです…これが雪斎と方菊丸(後の義元)との出会いでした。

二人に転機が訪れたのは14年後、義元18歳、当主・氏親は亡くなり家督を継いだ長男、次男までもが相次いで死去したのです。この時、当主の座に名乗り出たのが正室の子であった義元と兄ながらも側室の子であった玄広恵探でした。

家臣を2分する争いの中、雪斎は義元を当主の座に就けるためその智某をフルに活用します。雪斎がとった方法は驚くべきものでした。

当時、今川家は、甲斐の武田信虎と激しい敵対関係にありました。今川で内乱勃発とあれば駿河を虎視眈々と狙っている武田にとってこの上ない侵略の好機となります。…更に雪斎にとって最悪の事態は、武田軍が敵方に加勢してしまうことでした。

そんな中、雪斎はなんと自ら甲斐に乗り込みます。…そして武田信虎に対し駿河に手を出さぬよう直接交渉したのです。意外な事にこの時、信虎は雪斎の要求をすべて聞き入れ、内紛に一切介入しませんでした。…果たして雪斎はどのような交渉を行ったのでしょうか。

それが明らかになったのが内乱が義元側の勝利に終わった一ヵ月後でした。武田信虎の嫡男・晴信(後の信玄)が京都の公家の娘を妻に迎えたのです。…こんの婚姻をお膳立てしたのが雪斎でした。

武田家は甲斐源氏をくむ名門でありながら、この頃は、一地方領主にすぎませんでした。京都の朝廷とつながりを持ち権威を高めたい信虎にとって公家との縁戚関係は喉から手が出るほど欲しいものでした。

雪斎はそんな信虎の思惑を察知、京都の修行時代に培った人脈で三条家の娘を選び出します。三条家は摂関家に次ぐ家柄で当主は左大臣を務めるほどでした。…雪斎はこの縁組を引き換えに今川家の内紛に介入しないよう武田家に交渉、見事成功したのです。

それにしても雪斎はどのようにして信虎の情報を得たのでしょうか。…その理由は雪斎が僧侶という身分だったからです。

当時、一般の人が危険を伴わず他国へ安全に移動する事は困難でした。見知らぬ土地では不振がられて殺される恐れもありました。…そんな中で僧は『無縁の原理』が働くと考えられ比較的安全な移動が可能でした。

『無縁の原理』とは俗世間から離れていて敵味方がいない存在という意味です。…この身分の為、僧はたとえ敵国といえども旅が出来たのです。

この特権を生かし、僧たちは互いに各国の情報を交換していました。そんな中で雪斎も武田家の情報を得る事が出来たのです。

「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」(孫子)…雪斎の愛読書、孫子に兵法そのままに勝利は正確な情報を獲得した事でもたらされたのです。

 

知恵その二
Win-Winの関係を作り出せ

今川家と武田家の急接近に警戒を露わにした人物がいます…伊豆相模の戦国大名北条氏綱です。北条家は関東一の兵力を誇り、武田家と争いを繰り返していました。


一方、今川家とは姻戚関係があるため、対武田という意味では両家は盟友でした。…しかし、北条にとって今川が宿敵・武田と接近する事は裏切り行為でしかなかったのです。激怒した氏綱は駿河に侵攻、あっというまに半分を攻め取ってしまいます。

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今川のピンチ、…この危機を救ったのが意外なところからの援軍でした。上野の関東管領上杉憲政が突如、北条の領地に大軍で攻め込んだのです。…窮地に陥った北条は、やむなく駿河から撤退します。

今川を救った上杉の攻撃、これを仕組んだのはまさに雪斎でした。上杉に手紙を書き、北条を反対側から攻めるように交渉したのです。…こうして北条との停戦に持ち込んだ雪斎、…次に手を付けたのがなんとも ”壮大で前代未聞の計画” でした。

天文23(1554)年、雪斎が従事を務めていた善得寺で日本史上類を見ない同盟が結ばれます…これまで戦いを繰り返してきた武田、北条、今川が集まり三国同盟を締結したのです。

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お互いの領土を侵略しない、三国以外の戦いには互いに援軍を出すなど、これまでの関係では考えられない内容でした。…この同盟を立案し、各国に交渉したのが雪斎でした。

当時、三国はそれぞれ互いの国以外にも厄介な敵を抱えていました。
武田家 ⇒ 上杉謙信長尾景虎
北条家 ⇒ 関東管領 上杉憲政
稲川家 ⇒ 三河国人領主織田信秀
そんな中、三国が同盟すれば、背後を気にせず、それぞれの敵に集中することが出来ます。

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互いの消耗戦を避け、「勝てる相手とだけ戦いべし」 雪斎の冷静な説得が功をそうし、ここに前代未聞の三国同盟が成立することとなったのです。

雪斎の交渉成功のカギは、お互いにとって有利な状況を提示したこと…Win-Winの関係を作り出せたことにあったのです。

静岡大学名誉教授 小和田哲男 先生
「その後、雪斎は三国同盟が成立した翌年に亡くなります。…その後、桶狭間の戦いが5年後ですよ。…歴史にもしもは無いのですが、雪斎が5年長生きしていれば、桶狭間のあれは無かったといえるでしょう」


参考まで…
幼い頃、今川の人質だった竹千代(後の徳川家康)の教育係も雪斎だったのです。…家康のあの慎重さ我慢強さ、考え方、教養は雪斎の教えからだったのかも知れません。