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激論!戦国の真実 華麗なる独眼竜・伊達政宗

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NHK BS歴史館
激論!戦国の真実
~生き残る男のダンディズム~ 華麗なる独眼竜・伊達政宗

伊達政宗
ファッション戦略とは?
戦国武将のキャラクターデザインを手がける、土林誠さん…現在、政宗の半生を描く構想を練っています。…とりわけ黒い鎧兜に政宗らしさを感じるといいます。

伊達政宗のシンボルと言えば、黒い鎧兜に黄金の月の前建て、政宗は独自のダンディズムで数々の逆境を乗り越えて行きました。

そのキーワードは、黒と白…

永禄10(1567)年、政宗は出羽の国・米沢に伊達輝宗の長男として生まれました…当時、政宗と30以上歳の離れた織田信長が既に活躍を始めていました。

政宗5歳の頃、最初の試練が襲います…天然痘にかかり右目の視力を失ったのです。

キャラクターデザイナー 土林誠さん
伊達政宗は、右目を失うというハンディキャップがあったせいで己を見せる事にこだわり続けた人だったと考えます」

父・輝宗は、政宗を後継ぎとして鍛え上げ、政宗は15歳で初陣を飾ります…翌年、信長が本能寺で討たれると豊臣秀吉徳川家康らが天下取りを目指して絶え間ない攻防戦を繰り広げます。

そうした武将たちの生き方、ダンディズムの象徴が鎧兜、奇抜なデザインの前立てや華美な装飾が流行、自らの勢力を誇示し己の信念を刻みこみました。

一方、東北地方は小さな国々が群雄割拠し、小競り合いを繰り返す時代、…天正12(1584)年、18歳で家督を譲り受けた政宗は、一気に奥州制圧を目指し、戦いを挑みます。

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その政宗のシンボルが月の前立てと黒一色の鎧兜、豪華な鎧兜が流行した時代、なぜあえてシンプルなものを選んだのでしょう。

甲冑師 佐藤誠孝さん
「当時は華美な甲冑が流行した時代、政宗の黒一色は異形な装いであったと逆の意味で戦場では目立つ存在だったのです…胴は厚さ4㎜の鉄板、火縄銃に対抗する強靭なものです」

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色鮮やかな装飾で権威を示す武将の中で政宗の甲冑は胴以外も鉄でしつらえた実用的なもの…流行に迎合せず黒漆で塗り上げました。…これが逆に政宗の存在を際立たせる事になったのです。

家督を継いでから僅か5年、天正17(1589)年、政宗は23歳で南奥州を制覇、その名を東北にとどろかせました。

しかし、政宗の前に強大な敵が立ちはだかります…天下統一に乗り出した豊臣秀吉、西日本をほぼ指中に納めた秀吉は、天正18(1590)年、関東の北条攻めにかかります。

 

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軍勢5万ほどの小田原城を各地から集めた20万以上の大軍で取り巻き力を見せつけたのです…天下統一を全国の武将に見せつける大パフォーマンスでした。

その年の1月、政宗は秀吉から小田原攻めに参加するよう命じられます…伊達家を二分する議論が起こりました。

秀吉に服従し、天下取りを諦めるのか…命令を拒否して秀吉に挑むのか…政宗23歳、人生の岐路、迷った末に決断します。

天正18(1590)年6月5日、政宗はついに小田原に現れます…秀吉の命令からすでに半年、秀吉に睨まれ、政宗と伊達家は危機にさらされていました。

6月9日、登場した政宗の姿は、白一色、なんと死に装束で臨んだのです。…先手を打って死ぬ準備を整えてくるパフォーマンス、更に秀吉にひれ伏し、首を差し出す仕草も加えます。

秀吉は、政宗の首に杖を振り下ろし…「もう少し来るのが遅かったらこの首が危なかったぞ」派手な演出を好む秀吉に意表を突く装いで応えた政宗、まさに首の皮一枚…伊達政宗は、鎧兜の黒と死装束の白、ファッション戦略で戦国の世を生き抜いたのです。


歴史家 加来耕三
が解説する伊達政宗

秀吉は、天正15(1587)年の時点で一切の喧嘩をしてはいけないと、惣無事令を出しています…ところが政宗は、関係なしに、そこら中の土地をとりに行ってるんです。

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政宗が18歳で家督を相続した時は、上記画像の濃い青の部分だけだったんですが、23歳で青全体まで伸ばすのです。

ですから考えられないくらい暴れたのです。…秀吉からすれば許せないわけです…小田原征伐をやる年の1月に石田三成が手紙絵を書いてるんですが…北条を討った次は伊達だとはっきり書いているんです。

関東の北条と伊達は同盟軍、どっちに付いていいか、わからなかったんですね。

死装束で行く所なんか相当研究してたんだと思います…しかし、秀吉にも弱みがあるんです。…秀吉は早いこと日本の国を統一したいんです。

政宗を殺したりすると奥州がまた揉めますよね…これはチョット秀吉も考えるだろう…そこでどういう格好していったら許してくれて、かつ目立つだろうと考えたんです。

男性が伊達政宗を好きなのはわかります…伊達政宗は常に追い詰められるんです…もう駄目だというところを必ず生還して帰ってくるんです。


一流の文化人
伊達政宗

書も一流、和歌も一流の腕前、下記画像は、墨の濃淡、散らし書きという手法で自作の歌を書きつけたもの…「咲時ハ 花の数にハ あらねども 散にハもれぬ 山さくらかな」…咲く時は目立たない山桜も散る時は、鮮やかに人目を引く。

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政宗が自らを山桜に託した歌です。…政宗の後ろ姿を描いたのは名匠・狩野深幽、当時最先端、書画一体の作品です。

政宗の直筆の手紙は、現存するだけで1300通以上、側近に書かせるのが習わしの時代に自らあらゆる相手に書き送りました。

中でも家族や家臣に宛てた手紙には、政宗の本音と戦略が色濃く浮かびます。


伊達政宗
戦国一の筆まめ

天正13(1585)年 政宗19歳、家督を継いで初めての戦の戦果を伯父・最上義光に報告したものです。

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「500人以上を討ち、さらに女子供はもちろんのこと犬まで残らず殺しました。1100人以上みな殺しです」

勝利のため敵に一切の容赦をしない残虐非道を印象付ける内容、…ところが家臣への手紙では、討ちとった数は200人余りと記しています…伯父への過大報告に政宗はどんな狙いを込めていたのでしょうか。

仙台市立博物館 前館長 佐藤憲一さん
「勝ち戦でこれだけの手柄をたてましたよという報告ではなく、挑発的な手紙を義光に書いているのです…義光を伯父さんと見ているわけでなく、敵と見ているのです」

伯父・最上義光は親戚ではあっても別の国の領主、いつ敵になってもおかしくない関係だったのです…政宗は、実力を誇示し、牽制するために手紙を利用したのです。

対象に12歳で嫁いだ娘を気遣う手紙も残されています。

「この度、お手紙をいただきました。あなたにお会いしているような心持で眺めております。息災でいらっしゃるとのこと、なにより安心しました」

政宗の愛情深い父としての素顔がうかがえます…相手に応じて建前と本音を巧みに使い分けた政宗、…そんな数ある手紙の中で最大の謎が、母・義姫に宛てた手紙…27歳の時、秀吉の命を受け、朝鮮に出兵した政宗がその戦況や母への思いを綴った1mを超える長文の一部を紹介します。

 

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「秀吉様からの兵糧支援の申し出を思い切って断りました。今日まで一粒の米ももらっていません、やろうと思えば出来るものです。さりながら、どうか私の苦しい心中をお察し下さい 母上」

食糧不足の本音を隠し、秀吉に意地を通した政宗、それを母に誇りつつも弱音を漏らし、最後にこう書き加えました。

「どうかこの私も命を長らえ、もう一度母上にお会いしたいと、そう念願するばかりでございます」

親子の心の交流がしのばれる手紙、しかし実は、政宗と母、その間にはただならぬ確執があったのです。

5歳の頃に右目の視力を失った政宗、母は弟の小次郎に愛情をそそいだと言われます…更に伊達家の記録には、母との確執が政宗の命を脅かす事件にまで発展した事が記されていました。

天正18(1590)年4月5日、秀吉に呼ばれ、小田原に向かう前夜、母が設けた宴の席、政宗は料理を口にするやたちまち激痛に襲われました…急ぎ毒消しを飲んで一命を取り留めたと言うのです。

次男・小次郎を伊達家の当主に擁立しようとした母が政宗の毒殺を企てたと言われています。…政宗が朝鮮から母に送った手紙、書かれたのは事件から僅か3年後の事でした。

仙台市立博物館 前館長 佐藤憲一さん
政宗が母に送った手紙は7通残されています…どの手紙も母への愛情で溢れている…とてもあのような事件、母が実の息子に毒を盛って殺そうとしたとは思えません」

自分を毒殺しようとした母になぜ愛情深い手紙を書いたのか政宗の本心は、どこにあったのでしょうか。


戦国一のグルメ
伊達政宗

政宗のグルメは、単なる美食の探究だけではありません…いまや名産の仙台味噌も政宗が生んだものです。…兵糧としての味噌作りを重視した政宗は、藩直轄の製造所を作らせました。

仙台味噌の特徴は大豆の風味が前面に出る事です…大豆の風味と辛味が強い赤味噌は、仙台味噌と呼ばれ江戸で評判になります。

更に政宗は、料理を意外な戦略に使って行きます。

慶長8(1603)年、徳川家康は江戸に幕府を開き、天下太平の世が訪れました…そこで少しでも問題のある大名を次々と取りつぶし、徳川3代で廃絶された大名は、100以上にのぼりました。

謀反の噂の絶えない政宗は、将軍や側近たちに贈り物攻勢をかけます。
仙台特産「子ごもり鮭」
オットセイのタタキなどの珍味
初鮎

政宗の舌にかなった高級食材を頻繁に献上、グルメは生き残るための戦略でもあったのです。…更に料理は、政宗の当主としての力量を支えるものでした。

仙台伊達家18代当主 伊達泰宗さん
「一緒に食事をする者たちの名前が書き記されているのです…家臣の好みも把握していたのです…食事を通してのコミュニケーションも政宗公の食へのこだわりの中に含まれていると考えます」

政宗は、様々な家臣を食事に誘い、その好みに応じた食事を用意したというのです…家臣にさえもてなしの心で接した政宗、料理は信頼の絆でもあったのです。

政宗の言葉が残っています。

「料理の心得が無い者は、心が貧しい者である…一品でも自ら盛るならば、それが最高の馳走である」


未来を見つめる
グローバルな眼

杜の都仙台、人口100万、東北最大の都市です…この緑豊かな街並みを400年前に作ったのが政宗でした。…晩年の政宗は、日本一の国づくりを目指します。

慶長5(1600)年 関ヶ原の戦い…家康が天下統一に近づいた時代、翌年、政宗はそれまで拠点としていた山間の岩出山から南に移動し、仙台を本拠地とします。

当時、仙台は住む人もまばらであった荒れ地、しかし海辺に面した立地条件は、交通の要衝として経済発展が見込める地だったのです。

築城した青葉山は、三方を奥深い山と断崖絶壁囲まれた自然の要塞、開けた東側にも広瀬川な流れ、堀の役目を果たします。

当時はまだ、再び乱世となる恐れがあった時代、政宗は戦に備えつつも太平の世の財政基盤を作ろうとしました。…仙台は、和戦両用の城下町だったのです。

政宗が5万人もの家臣や領民が暮らせるよう着手したのが用水路整備、広瀬川の上流から城下にくまなく用水路を巡らす計画でした。

更に武家屋敷には、成長の早い杉の木を植えさせ、人口増加による建築材の不足に備えます…豊富な水量の用水路と植樹、こうして緑豊かな木々が鬱蒼と生い茂る杜の都は生まれたのです。

しかし、城下が形作られてきた頃、仙台藩の基盤を揺るがす事態が起こります。

慶長16(1611)年10月28日、慶長三陸地震による津波で領内の田畑は、壊滅状態に陥ります…津波で5000人以上が犠牲になったといいます。

政宗45歳、半生を過ぎて襲った大規模な天災、…この悲劇に政宗はどう対処したのか…震災後、新たに開拓された水田と所有者の名前が記された検地帳が残されています。

史料を分析すると政宗は、津波によって更地になった場所に家臣を入れて積極的に新田開発を行っていた事が読み取れます…更にこの機にかねてから進めていた新事業を一気に推し進めます。

それは今まで誰も思いつかなかった太平洋航路を使った海外貿易でした…当時、アジアを経由した南蛮貿易は、西国大名や堺の商人たちの手中にありました。

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政宗の狙いは仙台から太平洋航路を使いメキシコを経由した貿易ルート、スペインとの新たな貿易を画策したのです。

慶長16年11月30日、地震から1ヶ月後、政宗は貿易交渉のため江戸屋敷にスペイン人を呼び寄せます…この時の政宗の様子が記録に残っていました。

「あなたに会えない1時間は、1年にも思える」とスペイン人に語った政宗、その後、家臣が目を疑う行動に出ました。

刀の交換を申し出た政宗は、感謝の意を表し、受け取った刀をうやうやしく頭上に掲げます…更に宣教師の十字架に接吻、キリスト教へ敬意を表しました。

幕府がキリスト教弾圧を強める時期、政宗仙台藩での布教容認を条件に貿易交渉に踏み切ったのです…海運の中心地として築いた港・石巻使節団派遣のために製造した船が精密に復元されています。

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政宗が数千人の人員を配して完成させたサン・ファン・バウティスタ号、全長50m、500トンにも及ぶ当時、最大級の木造船でした。

慶長18(1613)年9月、支倉常長を代表とした使節団は、メキシコへ向け出港、更にスペイン、イタリア遍歴、貿易の交渉を重ねます。

しかし、幕府の厳しいキリシタン弾圧が原因で交渉は成立しませんでした…政宗の世界市場に向けたグローバルな夢は、破れました。

一方で政宗が新田開発をした領内は、米所として江戸の米の3分の1を供給、政宗の将来を見据えた確かな眼が石高100万石へと導いていったのです。

普通は、地震が起こった再建する為にどうしたらいいかと失ったものをとり返す事を考えますが…ところが政宗は違います…地震が起こった、それなら海外展開をして今までより大きくやろうと…鼓舞する為、外国へ行くぞ、だからみんな頑張って復興しようと家臣、領民を引っ張ったのです。

仙台に住んだ人たちは、政宗の元にいる限り、もっといい事があるんじゃないか…そういう期待感が持てたのです。


伊達政宗の夢の復興

東日本大震災津波で水田は浸水、大きな被害を受けました…この地で先祖代々米作りを続けている佐々木均さん…塩抜きをし、ガレキを撤去して秋、収穫を迎えました。

佐々木均さん
伊達政宗公がこうして立派な農地にしてくれたんで今後も…何百年前にやってくれたんですから、何百年後のことも考えながら単に復旧だけでなく、復興するにあたって将来の事も考えてやっていきたいです」

スペインに向かったサン・ファン・バウティスタ号の復元船も3.11の津波による打撃を受けました…2年後は初航海から400周年、石巻復興のシンボルとして修復作業が進められています。

伊達政宗が再び人々の希望の光になっています…城下を開くに当たり、仙臺(仙人の住む地)の文字を改めた政宗、その思いを詠んだ歌です。

入りそめて 国ゆたかなる みぎりとや
千代とかぎらじ せんだいのまつ

この地に来たからには
千年以上続く
豊かな国にしてみせよう

仙人の住む理想郷、仙台、政宗が願いを込めた名前です。