旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

戦国北条 百年王国の夢

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北条早雲(1432~1519)

 

NHK その時歴史が動いた
戦国北条 百年王国の夢
北条早雲、関東に立つ!

応仁元(1467)年、京の町を舞台に20万以上の兵が市街戦を繰り広げる未曾有の大乱が勃発します…応仁の乱です。

事の発端は将軍・足利家の家督争いでした…この頃、足利家に仕えていたのが北条早雲です。この応仁の乱に間近に接した早雲は自らの価値観を大きく変えることになります。

私利私欲に走る足利家のために罪もない民衆が命を奪われたり、行き場を失い流浪の民となったりしていたのです…その惨状は地獄絵図さながらでした。

こんな世の中で良いのか…早雲は足利家を辞し各地を転々とさまよいます。“民が平和に暮らせる国とは” 早雲は模索を続けました。

放浪を続けること20年余り、早雲は妹が嫁いだことをつてに駿河の国、今川家の家臣となっていました。ある時、早雲は隣国・伊豆についての情報を耳にします。

伊豆を拠点に関東を支配していた足利家の一門がおのれの私利私欲のために家督争いを起している、政治はおろそかになり民は重い年貢を強いられ苦しんでいるというのです。

“これではいたずらに民を苦しめた応仁の乱と同じではないか”…早雲は足利家打倒を決意します。

明応2(1493)年、早雲は伊豆へ攻め入ります…ところが早雲はすぐには戦いを始めませんでした。なぜか…実はこの頃、伊豆で疫病が大流行し、千人を超える死者が出ていました。

早雲は自らの軍勢へ命じて村人たちに薬を配り、看病に当たらせました…救われた村人たちの言葉です。

「早雲様は鎧兜を着なさっていたのでとんでもない鬼神のように見えたけれども御心は優しく、慈悲深い生き仏であった」(『北条五代記』より)

早雲たちは村人たちの病が治るまで看病を続けます…そして疫病が治まってから戦いを始めたのです。

早雲の言葉です…「生かすべき者を生かし、殺すべき者を殺す。それが政治というものである」(『北条五代記』より)

早雲は民を苦しめてきた足利一族に対し、苛烈極まりない態度で臨み伊豆一国を切り取りました…初めて一国の主となった早雲は、さっそく民衆を第一に考えた善政を敷きます。

まず手を着けたのが直接農民の負担となる年貢です…それまで五公五民だった年貢を四公六民へ引き下げ農民の取り分を増やしました。その分、自分と家臣たちには質素倹約を課し財政の緊縮化を行いました…こうして民を慈しむ理想の政治が始まったのです。

早雲は国を治める心構えを家訓として定め、広く領国に行き渡らせるとともに子孫に伝えました…『早雲寺殿二一箇条』です。

「刀・衣装、人のごとく結構に有るべしと思うべからず」(『早雲寺殿二一箇条』より)…刀や衣装は立派なものを身につけようとせず、質素倹約を旨とすべし、それは民に余計な負担をかけてはならないとの戒めでした。

更に民への接し方も定めています。「上下万民に対し、一言半句にても虚言を申すべからず」(『早雲寺殿二一箇条』より)…領民に対して常に誠実であれと早雲は説いたのです。

やがて早雲の善政は周辺の国々にも知れ渡ります。早雲の領民になる人々も現れました…「他国の百姓これを聞き、我らの国も早雲殿の国になってほしいものだと願う」(『早雲寺殿二一箇条』より)

こうした民衆の声を追い風に早雲はその後も足利一門への挑戦を続けます…小田原など関東一円の拠点を次々と攻略、20年以上の歳月をかけ、伊豆・相模の2カ国を平定しました。

早雲は広く関東に理想の国を作りたいと夢を膨らませます…足利氏の悪政によって荒廃していた関東に鎌倉幕府以来の秩序を取り戻す。

その早雲の志を示す歌です…「枯るる樹にまた花の木を植えそえてもとの都になしてこそみめ」…関東に理想の都を作ろうと目指した早雲の遺志はこの後、子孫に代々受け継がれてゆきます。…それは北条氏滅亡まで71年の事でした。

 

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北条氏康(1515-1571)

 

3代目、北条氏康の時代
“常に民に誠実であれ”

早雲の死から30年、世は本格的な戦国時代に突入していました…武田、上杉、今川などそうそうたる武将たちが戦いを繰り広げる中、北条氏もその渦中に巻き込まれてゆきます。

この時、当主は3代目・北条氏康、早雲の孫です…家督を継いだ直後から氏康は周辺の国々による侵入に晒され、苦しい戦いを余儀なくされてきました。

しかし氏康にとっての本当の危機は、実は領国内にありました…『国中諸郡退転』、度重なる飢饉が領国を襲い年貢を払えなくなった農民が田畑を捨てて逃亡、村々は荒れ果て北条氏の政治がその足元から崩れ始めていたのです。

氏康は気づきます…戦に追われ、民への政が疎かになってしまった。そこで氏康が立ち返ったのが祖父・早雲の教えでした。

“常に民に誠実であれ” 早雲のこの教えに従い氏康は民の暮らしを第一に考えた策を打ち出します。まず氏康は土地を捨てた農民が戻ってくるよう心を砕きました。…その政策が “徳政” です。

村に戻ることを条件にそれまでの年貢を帳消しにすると約束しました…これによって農民たちはこぞって村に戻ってきました。更に氏康は苦しんでいる民の声に耳を傾けようとします。

目安箱を設置し、問題があれば誰でも訴え裁判を受けることの出来る新しい制度を導入します。身分の隔てなく公平な捌きが行われる制度を氏康は作り上げたのです。

早雲の理想に立ち返ることで領国内部から発した危機を乗り越えた氏康、その目は次に領国の外へ向けられます。

天文23(1554)年、氏康は武田信玄今川義元と甲相駿三国同盟を結びました…周辺国に武力で対抗するのではなく、外交戦略によって争いを解決する道を選んだのです。

こうした氏康の国づくりは、民衆からの強い支持を得てゆきます…「氏康様は万民を愛し、家臣は氏康様によく仕えている、この主と家臣が揃えば国は安泰である」(『北条五代記』より)

この頃、氏康は大きな構想を描いていました…氏康が発給した文書からその様子が窺えます。「御国…国…国家」、自らの領国を一つの国家と意識した文字が多く見られます。

室町時代までの旧来の秩序を脱した新たな政権を樹立しようと氏康は意識していました…祖父・早雲が夢見ていた民を慈しむ国づくりを成し遂げた氏康、その国を守ってゆくために氏康は独立国家の構想を打ち立てたのです。

しかしその一方で独立国家を赦さず、日本を一つにまとめ上げようとする武将が現れていました…織田信長です。

永禄3(1560)年、氏康と同盟していた今川義元桶狭間の戦いで破った信長は、天下統一に向けて動き出します。

天下統一、中央集権に向かう時代のうねりに、独立国家いわば地方分権を目指す北条一族も否応なく巻き込まれてゆきます…それは北条氏滅亡の30年前の事でした。

 

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北条氏直(1562―1591)

 

5代目・北条氏直の時代
秀吉天下統一へ動き出す

天正10(1582)年6月2日、織田信長が本能寺で明智光秀の謀反に倒れます…その光秀を山崎の合戦で破り、戦国の表舞台に現れたのが羽柴秀吉です。

秀吉は信長の遺志を受け継ぎ天下統一に向けて動き出しました…この時、北条家では僅か18歳で家督を継いだ氏直が5代目当主となっていました。

氏直は祖父・氏康が打ち出した関東独立を秀吉から守るために新たに徳川家康伊達政宗三国同盟を成立させます。北条、徳川、伊達が結べば合せた軍勢は11万…15万の秀吉軍とも十分対抗できる一大勢力の出現です。

天正13(1585)年7月、朝廷から関白に任ぜられた豊臣秀吉は天下統一事業を進め、氏直らの三国同盟の切り崩しにかかります。

まず最初のターゲットは家康でした秀吉は家康に上洛を求めます…家康は当初、動こうとしませんでした。しかし秀吉からの圧力を前についに屈服、家康は上洛して秀吉に対して臣下の礼をとります。

その裏で家康は密かに北条氏と接触していました…両者の会談は三島と沼津、北条・徳川の国境近くで二度行われたのです。家康は高価な贈り物を差し出して誠意を示し、北条氏と戦う意思がないことを伝えました。

これにより北条氏は、家康が表向きは秀吉に従っているが、いざとなれば味方してくれるものと確信します。

天正16(1588)年4月、秀吉は天皇を京の聚楽第に招き、全国の諸大名に列席を命じます…列席すればそれは大名にとって豊臣政権に従うことを意味します。大名たちが命令どおり上洛してくるか、いわばこれは秀吉への服従を確かめる踏み絵でした。

氏直にも秀吉からの上洛命令が下ります…しかし氏直はこれを断固拒絶しました。そこには秀吉の命令を決して呑むことの出来ない根本的な問題があったのです。

当時、秀吉は支配下においた地域に重い年貢を課していました…二公一民、つまり収穫の2/3を農民は納めなければならないのです。北条氏の四公六民、つまり収穫の4割を納めればよい年貢を大きく上回ります。

この秀吉の過酷な取立てに農民たちは苦しんでいました…年貢一つをとっても民に対する政治にこれほどの違いがある。五代に渡って築き上げてきた民を慈しむ政治理念は、秀吉の中央集権的支配とはまったく相いれないものだったのです。

天正17(1589)年11月24日、秀吉が氏直に宣戦布告をします…「北条氏は近年公儀を侮り上洛をしない。早く誅罰を加え必ずや氏直の首を刎ぬべきこと」…氏直は小田原城に籠城し、長期戦に持ち込む道を選びました。

氏直が期待をかけたのが徳川家康伊達政宗の援軍です…それまでの間、城を死守し一気に反撃に出ようという作戦でした。一方で氏直は秀吉軍の攻撃に備えて防衛力を高めます。

まずは領国内にある出城の堀に独特な仕掛けを施しました…幅80センチの畝状の仕切りを持つ障子堀です。…敵が攻めるには一列になってこの畝を歩かなければならず、城内からは弓や鉄砲の狙い撃ちが可能になります。

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そして本拠地の小田原城には、当時の常識を覆す巨大な防御設備が築かれました…堀や土塁によって城だけではなく、城下町全体をすっぽり囲んだのです。周囲は約9キロ、そして堀は最大9mも深く掘られていました。

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氏直は城下町だけでなく、その外に暮らしていた民衆も堀の内側に批難させて秀吉軍を待ち構えました。

天正18(1590)年3月1日、秀吉が小田原に向けて出陣します…城の包囲を始めた秀吉軍、海上も秀吉の水軍によって埋め尽くされ封鎖されます…小田原城下は秀吉軍22万の大軍勢に完全に包囲されてしまいました。

しかし秀吉も城下町を囲む巨大な堀に阻まれて容易に手が出せません…両者のにらみ合いが続きます。

この時、城の東側の秀吉軍には、あの家康の軍勢が主力部隊の一つとして配置されていました…氏直は大きな衝撃を受けます。

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“家康は裏切った…この上は伊達の援軍を頼むのみ”…その伊達政宗が出陣したのは、小田原城が包囲されてから、ひと月も後…しかも正宗が向かった先は秀吉の陣でした。

氏直の下にその報せが届きます…氏直は思いをめぐらします。 “勝敗が決した今、城内の罪なき民衆を巻き添えに籠城戦を続けて良いのか” …。

そしてその時、天正18(1590)年7月、氏直は家臣を集めてこう語りかけます…「この度の籠城は忠義の至り、未来永劫忘れはしない、もとより城を枕に討ち死にする覚悟でいた。しかし大勢の者たちの命を失うにしのびず、このような仕儀となった。皆は明日より離散してその身命を全うしてくれ」(『関八州古戦禄』より)

城を出た氏直は秀吉に降伏します…そして自らが切腹する代わりに自分以外の者の命は助けて欲しいと願い出たのです。

小田原城開城、初代早雲の理想とともに築き上げられた北条一族の100年王国、その最期の決断にも民のためを考えた早雲の遺志が貫かれていたのです。


北条一族のその後

小田原城を開城した北条氏直は、その後、僅かな家臣とともに高野山に向かいました…自らの命と引き換えに民を守ろうとした氏直、その心意気に感服した秀吉は、氏直を殺さず高野山への追放にとどめたのです。

更に翌年、氏直は秀吉に赦され、1万石の大名として復帰します…北条氏はその後も河内の国・狭山藩大阪府狭山市)として幕末まで12代に渡って存続します。

江戸時代中期の狭山藩藩主・北条氏朝の日記が残されています…北条氏は財政難に陥り領国経営の危機に瀕していました。いかにして藩を立て直してゆくか日記に書かれた氏朝の決意には初代・早雲の遺志が受け継がれています。

三年の間に家臣の風紀を改める
十年の間に貧しい人々を救済する
自分は贅沢に流されず
民を憐れむよう努めたい