NHK 歴史秘話ヒストリア
戦国のプロフェッショナルたち 己の腕で乱世を生きる
episode1
伊賀と甲賀 忍者誕生物語
episode2
匠の技 国友 鉄砲づくり物語
episode3
村上水軍 海の王者の物語
episode1
伊賀と甲賀 忍者誕生物語
戦国時代、全国の大名の元で活躍した忍者の多くは、伊賀・甲賀の出身者でした。
徳川家康:服部半蔵など伊賀忍者
武田信玄:透波(すっぱ)甲賀忍者
上杉謙信:軒猿(のきざる)伊賀・甲賀の混成部隊
琵琶湖の南、紀伊半島の付け根にある伊賀と甲賀、山一つ挟んでお互い隣り合った地です。
小さな山里に暮らす伊賀と甲賀の人々が忍びとして活躍、その働きが神のようだと言われるほど、大名たちの注目を集める戦いがありました。
長享元(1487)年、時の将軍・足利義尚は、軍勢8千で突如甲賀の地に攻め込みました。幕府に抵抗する近江の武将がこの地に逃げ込んだためです。
木々をかき分け森の中に入ってくる幕府の兵士たち、すると予想もつかないところから次々と敵が現れ、攻撃してきます。
幕府軍は敵を追って次第に山奥深く誘い込まれます…そこへ、山のあちこちに仕掛けられた罠、更に毒の塗られた小刀がどこからともなく飛んできます。
神出鬼没の敵に翻弄されます。…更には夜間、将軍・足利義尚の前線の寝所にまで入られ、将軍が手傷を負わされる事態となったのです。…さしもの幕府軍も退却を余儀なくされたというわけです。
この見事な戦いぶりを見せたのが伊賀と甲賀の人々です。なぜ彼らはこのような技を身に付けられたのでしょうか。
伊賀・甲賀を含む紀伊半島一帯は、山岳信仰の聖地…山伏たちの修行の場です。山伏達は過酷な自然環境にあって厳しい修行を重ねる事で並はずれた身体能力を養っていました。
更に山の中で暮らすための様々な知識を培っていたといいます。またこの地は、険しい山に隔てられた小さな集落から成り立っていて、僅かな土地や水利権をめぐって争いが絶えませんでした。
こうした状況の中、伊賀と甲賀の人々は、山伏の知識や技術を次第に戦いに使える技へと変えていったのです。そうして完成された技の数々が甲賀の里の古文書に記されています。
『万川集海』、甲賀に伝わる忍術の数々を江戸時代にまとめたものです。武器の作り方や使い方が詳細に記されています。
中でもとえいわけ重要とされていたのが薬の知識です。山伏達が山の中で見つけ、怪我や病気の治療に使った薬草、甲賀の人々はその知識を深め、敵の命を一瞬にして奪う猛毒や身体を麻痺させる麻酔薬などを作りだしていました。
更に火を使う知識も山伏から取り入れています。火には悪を払う力があると信じられ、山伏たちは護摩を焚く祈祷によって火を扱う技術を育んできました。…そこから爆薬、通信用の狼煙などが発達したのです。
こうして将軍・足利義尚を総大将とした幕府軍を撃退してその名は、日本中に高まったのでした。
この戦いをキッカケに彼らは、情報収集や破壊工作などのプロフェッショナルとして全国の大名に取り立てられ、戦国の世を駆け巡って行くことになるのです。
episode2
匠の技 鉄砲づくり物語
天文12(1543)年、種子島に一隻の外国船が漂着しました。この時、船に乗っていた二人のポルトガル人が日本に初めて鉄砲をもたらしました。
鉄板をも撃ち抜く不思議な武器の威力に人々は驚きます。間もなく種子島や堺をはじめ、日本各地の人がこの新兵器を自らの手で作ろうと試みるようになります。
そんな中、近江の国でも鉄砲の生産が始まります。後に日本一の鉄砲生産地となる国友村です。…滋賀県国友町、琵琶湖北岸のこの地域一帯は、古くから武器や農耕器具を作る鍛冶職人が多く住んでいました。
町を訪ねるとあちこちに鉄砲造りの痕跡が残されています。最盛期には鍛冶屋が73軒、500人を超える職人が働いていました。…この町の鉄砲造りの歴史について江戸時代の初めにまとめられた記録が残っています。
『国友鉄砲記』…ここにはこの町で鉄砲が作られるまでのいきさつが記されています。
・京都の将軍(足利義晴)から不思議なものが届けられる
・将軍は、同じ物を作れと命じました
・早速、鉄砲を分解する
・銃身、引き金などなんとか作れそう
・一つだけ作り方がわからない
ネジです…銃身の後ろ側にネジで詮がしてしてあったのです。…鉄砲は銃身の後ろをしっかり塞いでおかないと発射した時、後ろに火を拭いてしまい大変危険です。
では完全に塞げばいいかというと、これでは不都合がおきます…鉄砲は使っているうちに ”すす” が溜まるので定期的に掃除しなければなりません。
その為、取り外しができて、しかも撃った衝撃では外れないネジが必要だったのです。…ネジには、雄ネジと雌ネジがあります。
この内、内側に溝を刻む雌ネジの作り方が村の人々には全く分からなかったのです。いったいどうしたらネジを作れるのか村人は悩み続けました。
そんな中、次郎助という男が思わぬものからネジを作るヒントを得ます。
それはなんと ”大根”(『国友鉄砲記』)
ある時、刃物で大根を切ろうとしていた次郎助、手元には刃のかけた小刀しかありません。仕方なくそれで大根をくり抜こうとしたところ、なんと大根の内側に溝が掘れているではありませんか…まるでネジのよう。
ひらめいた次郎助、これをヒントに改良を重ね、ついにネジを作り上げたのです。…こうしてメイドイン国友の鉄砲が完成したと 『国友鉄砲記』 は伝えています。
これに目を付けたのが織田信長、天正元(1573)年、信長は、近江の大名・浅井氏を滅ぼし、国友を手に入れます。そして国友の地に鉄砲の大量生産を命じます。
天正3(1575)年、その2年後、信長は当時最強と言われた武田氏との戦いで大量の鉄砲を使用し、見事大勝利を治めます。信長躍進の陰には、国友衆の知恵と努力があったのです。
その後、国友の鉄砲は戦国時代の幕引きである、大坂の陣で大活躍をします。この戦いに際して徳川家康は、国友衆に命じ、大小様々な鉄砲を作らせました。
慶長19(1614)年、大阪落城後、国友衆の貢献に報い幕府の正式な鉄砲鍛冶に定めました。…こうして国友は、日本の鉄砲生産のトップブランドとして不動の地位を築く事になったのです。
episode3
海の王者の物語 村上水軍
村上水軍、瀬戸内海一帯を支配し、日本最大にして最強の水軍とうたわれました。高度な操船技術と巧みな戦法によって敵を攻撃、あの織田信長をも打ち破る実力を持っていたのです。
大小様々な島が点在する瀬戸内海、その中央に位置する能島周辺の海域が村上水軍の本拠地でした。海の戦いで無敵を誇った村上水軍、その強さには秘密がありました。
秘密 その一
”船に乗るより、潮に乗れ”
海上の戦闘で重要なのが潮の流れ、敵に対して下流側に位置してしまうと潮に逆らって前に進む事が出来ず、思うように攻撃が出来ません。…いかに潮の流れをつかみ上流側につくか、それが勝敗を握るカギでした。
村上水軍が根城とした能島周辺は、激しい潮流が複雑に入り組み、絶えず潮が変化する航海の難所です。複雑な潮の流れを巧みに読み、船を自在に操った村上水軍、その航海技術の高さを伝える史料が地元に残されています。
『操潮時図』潮の流れを予測する道具です。…干潮満潮などを計算する道具です。複雑な潮の流れとその変化を予測し、常に優位な位置を占める事、それが村上水軍の戦い方でした。
秘密 その二
船は小さなものを使え
村上水軍は、小早船と呼ばれる、小さなスピードも速い、小回りが利く船を戦闘の主力に置きました。…この小早船の長所を活かした戦い方が記録に残されています。
(『舟戦以律抄』)
方円の陣形…村上水軍の基本的な陣形で大将の大きな船を沢山の小早船が取り囲んでいます。…一度、戦いが始まると、戦況によって素早く陣形を組み替えてゆきます。
『鶴翼の備え』敵の船団を囲み、周囲から攻撃する陣形です。
『魚鱗の備え』敵が攻めてきたら陣形を変え、敵の中央突破を図ります。…小回りのきく、小早船を使い状況に応じて素早く陣形を変える、その為には、海の上でお互いに意思の疎通を図る事が重要です。
村上水軍の優れた連携プレイを可能にした道具が法螺、笛です。村上水軍は笛や太鼓など様々な楽器を使って攻撃、退却、陣形の組み換えなどの合図を出していました。
特に笛の音は高くて鋭いため、波の音など低い音の多い海の上では抜群の効果を発揮します。日頃からこうした道具を使った訓練を繰り返し、一糸乱れぬ等卒を実現したのです。
こうして村上水軍は、広大な瀬戸内海一帯を手に入れたのです。
そんな村上水軍に最大の見せ場がやってきます。村上水軍は同盟関係にあった中国地方の大名・毛利輝元から援軍の要請を受けます。
敵は織田信長、天下統一を目指し、激しい戦いを重ねた信長は、この頃には近畿一円をほぼ手中に収めていました。
毛利氏から見れば、中国地方が信長の標的になることは明らかでした…。
天正4(1576)年7月、村上水軍は800艘の船団で出撃、大阪湾に突入しました。対する信長も水軍で立ち向かいます。
信長は、大阪湾沿岸の勢力をかき集め、水軍を編成していたのです。信長軍は、安宅船という大型の船が中心です。
大勢の兵が乗り込み、鉄砲の一斉射撃が行える強力な軍船でした。…しかし村上水軍の小早船はスピードが早く、小回りが利くので信長軍の鉄砲は当たりません。
村上水軍の小早船は、信長軍の大きな船を取り囲みます。そして秘密兵器、”ほうろく”で攻撃します。 ”ほうろく” とは敵の船に投げつけ爆発炎上させる爆弾です。
船を素早く近づかせては、”ほうろく”を次々投げつけ、瞬く間に逃げ去ってゆく小早船、巧みな連携プレイで信長軍の船を焼き尽くし壊滅させました。
戦国最強と言われた村上水軍、江戸時代となり、戦の世が終わってもその伝統の技術は引き継がれて行きます。朝鮮からの使節団が来日する時は、瀬戸内海の海を知り尽くした村上水軍が水先案内をするのです。
海上のプロフェッショナル村上水軍、海の男たちの誇り高き生き方は、太平の世になっても決して失われる事はなかったのです。
最後に
戦国の世に築かれた数々の名城
これらの石垣にもプロフェッショナルの技が生きている。…戦国時代、それまでの常識を覆すような城が誕生しました。織田信長の安土城です。
日本初の7階建ての高層建築、それを土台から支えたのは前例のない10mの巨大な石垣でした。…この石垣を築き上げたのが、 ”穴太衆” と呼ばれる職人集団です。
彼らは形も大きさもバラバラな自然石をバランスよく組み合わせる事によって、決して崩れない堅牢な石垣を組み上げる技を持っていました。
安土城以後、各地で巨大な城が作られるようになると穴太衆はそれらの城の石垣を次々と築いて行きました。
琵琶湖の畔、大津市、ここでは今も穴太衆の子孫たちが仕事を続けています…全国各地の城の修復や神社仏閣の石垣造りなどが主な仕事です。
穴太衆第14代目石匠 栗田純司さん
「穴太の教えは、石の声を聞き、石の行きたい所へ持って行け、…石を測って合わなかったら削るのではなく、石に聞いて見るような気持で石を選んでいくとおのずと石が手を上げてくれる…石を触っていないと覚えられない仕事です」
平成20年、新名神高速道路が部分開通しました…路面を支える土台として一部の区間で使われているのが、穴太積みの石垣です。
実験の結果、穴太積みの強度は、コンクリートブロックに比べ遥かに優れている事が分かり、採用されました。
伝統の技は、現代でも十分に通用する事が証明されたのです。
今も昔もその時代を支えてきたのは、数知れぬ、プロフェッショナルの技と心でした。