NHK COSMIC FRONT
コズミックフロント
発見!驚異の大宇宙 天文将軍 徳川吉宗
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江戸城に秘められた天文台
2年前、徳川吉宗と天文学を関わりを示す重要な手掛かりが発見されました。
(江戸城吹上御庭図)
前後の時代にはない、吉宗の時代だけ、天文詰所(天文台)が江戸城内に設置されていたんです。
当時の天文台は暦を作る事が主な目的です。日本には7世紀に中国から暦や天文の知識が伝わってきました。
天文台の前身ともいえる、陰陽寮が都(京都)に設けられ、…
暦博士:暦作り
陰陽博士:占いをする
天文博士:天体観測
…平安時代に活躍した安陪晴明は、この天文博士でした。
以来、暦を作る天文台は京都に置かれていました。吉宗が江戸城内に天文台を作ったのは、暦に関わる大きな野望があったのです。
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『理系将軍』のこだわり
徳川吉宗が将軍職に着いたのは、1716年32歳の時でした…この時、ブレーンとして登用したのが…
建部賢弘(当代きっての数学者)
中根元圭(建部の弟子で天文学者)
…吉宗はこの二人の理系のブレーンをそばに置いたのです。
吉宗は二人に指示を出します…
1.国内の人口
2.日本の正確な地図
(大日本国興地図 1723年)
吉宗が作ったものは、初めて科学的な測量法で作った日本地図です。…そして人口は3200万人…吉宗以前は、人工すら把握しないで政治を行っていたのでした。
年に一度、オランダ人の商官長が訪れた時のやり取りが記録されています。
吉宗:「船でオランダからインドネシアまでどの位かかる」
官長:「5か月、逆風なら10カ月です」
吉宗:「日食は起きるのか、北極星の高さは、オランダにはどんな薬があるのか」
吉宗の質問は天文から医学、オランダの風俗まで多岐にわたったと記録されています。…オランダの歌を歌わせた記述もあります。
森羅万象に興味を示す吉宗は、まさに好奇心のかたまりだったのです。吉宗の好奇心を示す面白い証拠が 『江戸城吹上御庭図』 にも示されていました。
猿・鹿・孔雀…そうです。江戸城に動物園があったのです。これも吉宗の時代に作られたものです。そんな知りたがりの科学者・吉宗が一番興味を持ったのが天文学でした。
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天文将軍 改暦への執念
徳川吉宗が天文学の並々ならぬ知識を持っていた証拠が残っています。暦について吉宗が直接、側近に質問した書状です。
吉宗の直筆とも言われます。そこには10項目の質問が記されています。
・時憲歴とはいつの世に誰が作ったのか(時憲歴は、1644年に中国で使われ始めたばかりの最先端の暦)
・日食とは、月食とは、…事こまかに訪ねています。
帝京平成大学 中村士 教授
「暦の善し悪しは、日食月食が当たるか当たらないかと言ってるんです。間違いなく吉宗は、かなり高い、専門的な知識を持っていたと考えられます」
月が太陽を隠す日食は、古来、人々から恐れられた天文現象です。日食を的中させる事は、暦の最も重要な役割の一つでした。
ところが江戸時代の初期、日食の予報は外れる事が多くなっていました。平安時代から暦の改定、つまり改暦が800年も行われなかったのです。
その為、暦と実際の天体の動きにずれが生じてしまい、人々は暦に対する信頼を無くしていました。吉宗の時代の40年前、暦のくるいに業を煮やした幕府は、天文学者・渋川春海に命じて貞享暦(じょうきょうれき:13世紀から中国で使用された授時暦を参考に作られたもの)を作らせました。
最新の天文知識を持つ吉宗は、貞享暦も正確ではないと不満を述べていたのです。…新しい暦を作ろうと吉宗は、側近の中根に貞享暦の間違いを探す、太陽観測を命じました。
江戸城内に作らせた天文台は、吉宗自身が天体観測をする事によって正確な暦を作ろうと考えたからなのです。
吉宗の天文台は10mほどの築山の上に作られました。直径2.4mもの巨大な渾天儀(こんてんぎ)が置かれていました。吉宗はここで将軍みずから天体観測をしたと記録されています。
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国産望遠鏡の誕生
吉宗から遡る事100年、ヨーロッパでは一人の天才が革命を起こしていました。…イタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイです。
ガリレオ・ガリレイ
「見えないと始まらない、見ようとしないと始まらない」
ガリレオに関する過去の記事です 参照下さい
ガリレオから始まる驚異の大宇宙 ↓ ↓
https://www.tabi.cafe/entry/2020/03/31/090614
ガリレオは自ら作った天体望遠鏡で木星の4つ衛星を発見します。更に土星の輪を ”耳のようなものが付いている” と記録しています。
ガリレオの天文学の大発見は、瞬く間に世界を駆け巡り、日本にまで伝わってきていたのです。…鎖国当時の長崎出島での記録です。
1650年頃、幕府大目付の発注で、…「遠く・見る物(望遠鏡)…特に…きれい…長い…木星の…4つの衛星」
木星の回りを回っている衛星を見るための望遠鏡が欲しい…そんな注文だったのです。鎖国中の日本にも最新の天文学が伝わっていたのです。
「鎮星(木星)には耳がある」(天文略)…当時中国から輸入された天文書にもガリレオが発見した土星の耳が描かれていました。
ガリレオと同じように見えない宇宙を見てみたい…輸入された望遠鏡に飽き足らず、吉宗は決意します。側近の建部、中根に国産の天体望遠鏡作成を命じるのです。
当時、長崎には中国から入った眼鏡作りの技術を持った職人がいました…彼らの手により、輸入品を超える望遠鏡は作られたのです。…しの実物が長崎に残っています。
全長3.4m、作者:森仁左衛門正勝(幕府のお抱え眼鏡職人)…この望遠鏡を分解し、忠実に復元してみたところ、木星の4つの衛星、土星の耳(輪)も確認できたのです。…吉宗も側近の建部・中根もさぞ驚いたでしょう。
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吉宗の意志を継ぐ者たち
1720年、吉宗が暦作りに取り組んでいる最中の事でした。側近の建部・中根から進言を受けます。
建部・中根:「上様お願いがございます。西洋の天文暦学、数学の知識を知るためにどうか禁書を緩めていただけませんでしょうか」…こんなやり取りがあったのではないでしょうか…笑)
鎖国中の江戸幕府は、キリスト教の布教を禁じるため、あらゆる西洋学問の書物の輸入を禁止していました。…それは、 ”将軍以上の存在を認めない” という幕府の権力の現れでした。
しかし吉宗はその江戸の社会を大転換する決断を行ったのです。それは科学の分野の鎖国を緩め、キリスト教以外の西洋学問の書物の輸入を認めるものでした。
その結果、天文学に加え、最先端の医学、薬学などの西洋の書物が日本に入ってくる事になりました。(漢訳洋書の輸入緩和 1720年)…吉宗は、西洋科学の重要性をいち早く見抜き、科学の世界へと日本を開国したのです。
1745年、徳川吉宗・将軍職辞任、
1751年、徳川吉宗 死去(享年68)
しかし、この決断により、江戸に吉宗の精神が受け継がれて行きます。
(ターヘル・アナトミア)
ドイツの解剖学者、ターヘル・アナトミアの書が吉宗の死の20年後に日本に入ってきました…この本に衝撃を受けたのが蘭学医・杉田玄白、…玄白は苦労の末、翻訳し、あの有名な解体新書を刊行します。
医学への多大な貢献はもちろん、西洋科学への理解をも進めました。…天文学の書物も沢山入ってきます。
(ラランデ暦書)
フランスの天文学者・ラランデが記したものです。惑星運動の法則や引力など西洋の最新天文学が網羅されていました。
その影響を受けた一人が江戸後期に活躍した発明家、国友一貫斎です。
元々鉄砲鍛冶職人だった国友は、反射望遠鏡を日本で初めて作りました。その倍率60倍、同時代の西洋の物に引けを取らない高性能なものでした。
国友はこの反射望遠鏡を使って熱心に天体観測を行います。惑星の姿を正確にスケッチし、天文学を広めました。
そして吉宗が生涯をかけてこだわった暦の改定、その死後半世紀、ついに吉宗が目指した新たな暦が誕生しました。
西洋天文学、特にケプラーの楕円軌道の法則を踏まえて作られた暦です。
(寛政暦書)
1798年に公布された寛政暦です。…寛政暦書の序文にはこう書かれています。
有徳大君(吉宗)の
遺志の万分の一を
やっと補うことができたと
ひそかに思う
つまり、吉宗の万分の一を密かに出来たと思う。
吉宗がまいた科学の種は様々な分野で受け継がれ、花開いていったのです。
天文将軍・徳川吉宗…その生涯を通して好奇心を持ち続け、最新の科学知識を受け入れ、それを自分の目で確かめようとしました。
この世界の真の姿を知りたい…遠い宇宙までもっと知りたい。