旅cafe

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獄中の出会いが生んだ吉田松陰の思想 志あるものよ立ち上げれ!

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NHK その時歴史は動いた

草莽掘起(そうもうくっき):身分を問わず在野の志あるもの達が新しい時代を築くために立ち上がる事。

幕末、ペリー率いるアメリカの艦隊、黒船が日本に来航 武力を誇示して開国をせまり日本は大混乱に陥ります・・がこの黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうと企てた人がいます。・・吉田松陰、後に松下村塾を主宰し教育者として知られる人物です。

西洋の知識を得たいと考えた松陰は、危険を冒して黒船への乗船を試みます。しかしあえなく失敗、密航の罪で投獄されます。・・獄中では志を共にする友人を失い古い身分制度の現実に直面します。

苦悩する松陰に一筋の光を与えた女性がいました。高須久子、松陰同じ囚人でした・・久子の投獄の理由は、身分にかかわりなく人と接する久子の生き方が原因でした・・松陰は獄中で久子のこの考え方にふれて新しい時代の理念をつかんだとも言われています。

やがて獄を出た松陰は、山口県萩市かつての長州藩の城下町で松下村塾を主宰します。身分にとらわれずやる気のある者を受入れ 「共に学び互いに教え合う」 それが松陰のやり方でした。一人一人の個性を尊重し、議論させようとしたのです。

しかし松陰は、「古い権威は、頼りにならない」 という過激な発言を咎められ再び投獄されてしまいます。・・そこで高須久子と再開、やがて松陰は、獄中で古い考え方を根底から覆す画期的な思想を導き出します。

「在野の志あるもの達こそが新しい時代を作るべきだ」 松陰のこの考え方は弟子達に受け継がれ新しい時代を築く大きな力となったのです。

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文政13(1830)年 吉田松陰長州藩士の子としてこの地に生まれ家業の兵学者としての道を進むべく教育を受けます。
天保11(1840)年 松陰11歳の時、長州藩主の前で兵法の講義を行い称賛をうけました。
弘化 5(1848)年 松陰19歳で兵法の師範として身を立てる事となったのです。
嘉永 3(1850)年 見聞を広める為、全国を巡る旅にでる。
嘉永 6(1853)年 6月3日ペリー率いるアメリ東インド艦隊が浦賀に現れました・・ペリーは、武力を誇示して開国をせまり日本は大混乱に陥ります。

松陰は、黒船を一目見ようと浦賀に走りました。それは見た事もない巨大な船、大砲30門を搭載し蒸気を動力とした最新鋭の船。

吉田松陰の手紙「兵学者は、実質的な学問を持たず。何もできず。口先が上手いだけである」・・そして松陰は考えます。・・「これからは、西洋を知り、西洋の兵学を学ばなければならない」。

嘉永7(1854)年3月27日この松陰の考えに賛同した長州藩出身の金子重之助(23歳)と下田へ行き、黒船への乗船を試みます。しかしあえなく失敗、密航の罪で長州藩内の牢獄に入れられます。

二人は別々の牢獄に入れられます・・松陰は武士階級が入牢する野山獄で個室が与えられました・・一方、農民出身の重之助は衛生状態の悪い雑居房
安政2(1855)年1月11日 金子重之助は病に倒れ獄中で命を落とします。享年25歳・・松陰は重之助の死に衝撃を受けました。・・身分制度に疑問を持ち始めるのです。

このころ松陰は、高須久子と獄中で出会うのです・・松陰が 「草莽掘起(そうもうくっき)」 を起草する4年前の事でした。

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長州藩の裁判記録によると武家の女性久子は、三味線が好きでいろんな人を自宅に呼び寄せ遊び呆けていました。久子は身分に分け隔てなく人々に接しました・・時には武士の家に出入りする事が許されない人が招きいれられる事もあったとされています。

つまり久子は、上層と最末端が仲よく付き合うという当時の身分社会では、あってはならない社会のタブーを破ったため投獄されたのです。・・松陰は久子の自由な発想、考えに感化されて行きます。

松陰は、獄中で句会、書道などを行い、囚人達との交流で人それぞれ得意分野があり、個性を伸ばす事の大切さを学んだのです。

安政2(1855)年1月 松陰、野山獄を出て自宅謹慎を言い渡される・・萩の自宅に戻った松陰は、集まってきた若者達に牢獄での経験を活かした教育を行うようになります。

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松下村塾は開け放たれ出入りする時間や回数は制限されません。一日3回来る塾生、夜来て朝帰る塾生、武士も町人も様々な身分の人が集まり一つの部屋で学びます。
松陰は、「飛耳長目」(ひじちょうもく 多くの情報を入手し行動する)を合言葉にします。・・更に松陰は、講義だけでなく討論会も重視しました 「今の日本に必要な事は何なのか自分達で考え答えを導き出す事が大切だ」 と考えたのです。

吉田松陰の言葉 「沈黙自ら護るは、余はなはだ之を憎む」・・会議の席で黙っていてはダメだ!

後に総理大臣になる伊藤博文山県有朋も塾生でしたがその中でも松陰が高く評価していたのは、久坂玄瑞でした・・玄瑞は身分は高くありませんでしたが才能も気概も一流と評されます。

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(写真 左が高杉、右が久坂)
安政4(1857)年 久坂玄瑞に誘われ高杉晋作(当時19歳)が入塾します・・長州藩上級藩士の息子だった晋作は、明倫館という藩校に通っていましたが型にはまる事が嫌いな晋作にとって明倫館の授業は飽き足らなかったのです。

そんな晋作、松下村塾でも頑固で意地を張る事が多く塾生たちにも 「離れ牛」 と呼ばれ敬遠されていました。・・しかし松陰は 「晋作は、いずれ大成する人物である彼の頑固さを無理に摘み取ってしまってはならない」 と言っております。

安政4(1857)年 その頃世論はアメリカとの関係を巡って紛糾していました・・アメリカが幕府に日米修好通商条約を結ぶように迫っていたのです・・この条約は 「不平等条約」 としても有名ですね・・松陰は塾生たちにどう対処したらいいか考えさせます。

松陰は、「西洋歩兵論」 を下記表します・・西洋の歩兵制を採用し身分にとらわれず志があれば足軽や農民も募るべきだと言う当時としては、画期的な内容です。

安政5(1858)年 この頃、京都や江戸では幕府の封建体制に意義を唱える思想家たちが次々と逮捕されていました 「安政の大獄」 です。

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こうした動きを見て 「このまま幕府に任せてはおけない」 と松陰の考えは日に日に強まって行きます・・やがて松陰は、幕府を倒すために過激な行動をとれと主張するようになります・・塾生たちは反対しました。松陰の考えがあまりにも急進過ぎると言うのです。

安政5(1858)年12月26日 こうした松陰の過激な発言は長州藩の知るところになり、再び萩の野山獄に投獄されます・・ここで松陰は、高須久子と再会します。松陰が 「草莽掘起(そうもうくっき)」 を起草する4ヶ月前の事でした。

塾生達にいくら行動せよと訴えても彼らはついてこない 「ならば一人でやる」 松陰は、塾生達に断絶状を送ります・・そんな松陰の心の支えが高須久子でした。改めて久子の生き方に接し自らの思想を新たにしたのです。・・新しい日本を築くために久子の行動がヒントになったのです。

松陰は考えを改めます。一人では何もできない・・新しい時代を築くには誰でも参加できる事が大切だ・・多くの人に呼びかけよう・・自分が倒れようともきっと志あるものが後を継いでくれるにちがいないと・・。

安政6(1859)年4月7日 松陰はその思いを文書にしたためましす 「草莽掘起」 として後世に知られる文書です。
「混乱する日本の中で幕府も藩もあてにはならない、今の日本を改革するには身分に分け隔てなく志あるものが一人一人自覚を持って立ち上がらなければならない」

安政6(1859)年5月14日 松陰は塾生達との関係を修復する手紙を書きます。牢を出た後、行動を共にしようと思ったのですが時すでに遅し・・松陰の江戸送りが決定したのです。

安政6(1859)年7月9日 幕府の取り調べが始まる 松陰は高杉晋作に手紙を書きます 「「死して不朽(後世に残る)の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」 吉田松陰の手紙より

安政6(1859)年10月27日 吉田松陰 刑死 享年30 ・・松陰死す!その知らせは各地の志士達の間を駆巡りました。

文久3(1863)年6月 高杉晋作は、「騎兵隊」を創設します・・騎兵隊は、松陰の「草莽掘起」の考えを受け継ぎ志があれば身分は関係なく誰でも入隊する事が出来ました・・騎兵隊は、長州軍の主力となり幕府軍を打ち破りました。

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元冶元(1868)年 松陰の死から9年、元号は明治と改められました新政府の要人には、伊藤博文山県有朋など松下村塾の塾生達が名を連ね明治の新しい世を築いて行きました。