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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

世にも数奇なラストサムライ 幕末・中島三郎助

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NHK 歴史秘話ヒストリア
「世にも数奇なラストサムライ 幕末・中島三郎助」

徳川250年の泰平を揺るがした黒船来航・・中島三郎助は偶然、この歴史的大事件の最前線に立つ事になります。

episode
とっさの「○×△」で歴史が動いた!
~最初に黒船に乗った男~
文政4(1821)年 中島三郎助は幕末、現在の神奈川県浦賀に生まれました・・浦賀江戸湾の入口に近く海の交通の要衝として幕府の奉行所が置かれていました。

三郎助の生まれた中島家は、代々浦賀奉行所の与力を努める下級武士の家柄でした・・与力は「地元採用の中間管理職」多くは親子代々同じ職場で出世・転勤なし・・一方、上司である奉行は数年ごとに移動する為、奉行所の実務を支えていたのは現場に詳しい与力たちでした。

天保8(1837)年 三郎助17歳、黒船来航より16年前の夏、浦賀の沖に一隻の外国船が姿を現しました・・通商を求めて来日したアメリカの商船モリソン号です。

この日、三郎助は浦賀の北、観音崎の砲台にいました・・当時は鎖国のさ中、当時の幕府の方針は「外国船は問答無用で打ち払え!」でした・・三郎助はモリソン号に向けて大砲を放ちます。

しかし当時の日本の大砲では、弾は沖を行く船まで届かなかったのです・・三郎助は軍人でもあるわけですから外国船に勝てない事をすぐに見極めたのです・・運よくモリソン号は帰っていったけど、もし外国船が本気なら打ち払えなかっただろうと考えました。

天保13(1842)年 この後、幕府は外国船への対応を変更、打ち払いをやめ相手が望めば水や薪を与えて穏便に退去させるよう現場に通達しました。

外国の武力は怖いが鎖国は続けたい幕府の外交方針が揺れる中でやがて運命の時が訪れます。

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   サスケハナ号


嘉永6(1853)年6月3日 中島三郎助33歳、この日、浦賀の沖合に日本の海に始めて出現した蒸気船、マシュー・ペリー率いるアメリ東インド艦隊の来航でした。

この時、三郎助は月ごとに交代する応接掛、つまり外国船に退去命令を伝える掛にたまたま当たっていました・・さっそく小さな船で黒船に向かいます・・ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号は、長さ80m、当時の日本の大型船、千石船の20倍・・しかも何時でも大砲が打てるよう戦闘体制が取られていました。

もし戦いになれば浦賀奉行所の戦力ではとうてい勝ち目はありません・・黒船に漕ぎよせた通訳の役人と三郎助は、「速やかに退去せよ」とフランス語で書かれた紙をかかげました」

船上からは、「我々は地位の高い役人でなければ話をしない」との事、三郎助は窮地に追い込まれます・・一介の与力にすぎない自分では対話をしてくれない。

かと言って戦闘体制の軍艦を前に目的を確かめずに引きさがるわけにもいかない・・そこで三郎助は思わぬ行動に出ます。

通訳に『私が”浦賀の副奉行”だ』と言ってくれと・・もちろんこれは真っ赤なウソ・・何としても役目を果たそうと言う責任感から生まれたとっさのハッタリでした。

三郎助は、切腹も覚悟の上で「副奉行である」と名乗ったのです。・・しかしこれは最上にして唯一の策だったと現代の歴史家は考えています。

この必死のハッタリが功を奏します・・アメリカ側は三郎助の言葉を信じ乗船を認めたのです・・浦賀の副奉行、三郎助とペリーの副官コンティー大尉との間で交渉が始まりました。

三郎助:「外交窓口の長崎へ向かって欲しい」
コンティー大尉:「開国を求める大統領からの国書を渡したい」
コンティー大尉:「拒否すれば艦隊は江戸へ向かう」

それは幕府と戦争にもなりかねない危険な事態です・・再び窮地に立たされた三郎助、とっさに副奉行と名乗ったもののこれ以上踏み込んだ交渉は、与力と言う自分の立場をはるかに超えてしまう・・考えた末、三郎助の答えは、・・

三郎助:「上司の奉行と相談するので明日まで時間をいただきたい」

でした・・歴史的な日米交渉の初日はこうして危機を免れたのです。

嘉永6(1853)年6月9日・・その後、幕府は浦賀に近い久里浜での国書受取りを決断、日本は開国へと向かい幕末と言う時代が動き出します。

三郎助の一世一代のハッタリ ”副奉行”・・歴史の大転換がここから始まるとは三郎助本人も思ってもみなかった事でしょう。

黒船来航の7日目、中島三郎助は再び黒船に乗る機会をえます・・最初の交渉窓口となった浦賀の副奉行としてアメリカ側に招待されたのです。

この時、三郎助は船の寸法から大砲の性能までねほりはほり聞いて調べ回りました・・その徹底ぶりはアメリカ側の記録に「ずうずうしく厚かましい・・しつこく詮索好き」と記されるほど・・しかしこの外国船への強い関心がやがて三郎助の人生を大きく変えて行きます。

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
「世にも数奇なラストサムライ 幕末・中島三郎助」

数奇な運命に導かれて日本人で初めて黒船に載った男、中島三郎助・・桂小五郎勝海舟吉田松陰榎本武揚、幕末の英雄たちとの出会いと別れ・・その意外な顛末を紹介します。

episode2
男40代!出世の花道…!?
~海軍はじめて物語・その光と影~
三郎助は、招かれた黒船でアメリカ人が呆れるほどしつこく調査したには訳があります・・三郎助たち浦賀奉行所の役人たちはかねてから西洋式の軍艦を造りたいと思っていました。

当時、日本には大砲を積める大型の船は無かった為、外国船の来航に備えるには西洋式の大型船が必要だったのです。

西洋の船を調べる千載一遇のチャンス・・やや暴走気味の行動は三郎助の責任感からでたものだったのです。

黒船来航から3カ月後、三郎助の熱意が実を結びます・・外国に対して危機感を強めた幕府から洋式船建造の命令が下ったのです。

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嘉永7(1854)年5月 着工から僅か8ヶ月、三郎助たちは国産初の西洋式大型軍艦・鳳凰丸を完成させました・・長さ36mで大きさは千石船の3倍あります・・赤く塗られた戦隊には10門の大砲が装備されていました。

三郎助は鳳凰丸の実質的な艦長を任されました・・試験航海には幕府高官も乗り込みその性能には高い評価が与えられました。

安政2(1855)年・夏 この頃、意外な人物が三郎助の家を訪れています・・長州藩士、桂小五郎のちの明治政府の重役、木戸孝允です。

造船について学びたいと言う桂を三郎助は自宅に住まわせ勉強を助けました・・一月半ほどの滞在を経て桂は三郎助を師と仰ぎその後も交流を続けています。

鳳凰丸の成功によって三郎助の名は洋式船の専門家として広く知られるようになったのです。

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安政2(1855)年 三郎助35歳は、幕府が開いた長崎海軍伝習所へ第一期生として派遣が決まる・・西洋の驚異を前に幕府は急いで海軍を作る必要に迫られていました。


そのため長崎海軍伝習所には即戦力となる人材が各所から集められます・・勝海舟榎本武揚など歴史に名を残す大物達もいました・・彼らと机を並べ三郎助はオランダ人教官から造船術、航海術、砲術などを学びました。

安政5(1858年)年 三郎助38歳、三年後、長崎での伝習を終えた三郎助は、江戸に新設された軍艦操練所に移り教授方として後進を指導する事になります。

更にはもう一つの大仕事、オランダから輸入された蒸気軍艦、咸臨丸の修理です・・咸臨丸は日本初のスクリュー船、三郎助は鳳凰丸建造以来の実績と技術を買われ幕府海軍の大事な船を任されたのです。

無名の地方役人から幕府海軍の実力者へ、三郎助は時代の波に乗り、出世の階段を駆け上って行きました。

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万延元(1860)年 三郎助40歳、幕府海軍は画期的な偉業を成し遂げます・・咸臨丸で太平洋を横断しアメリカとの往復に成功したのです。

蒸気船で太平洋を渡った例は海外にもほとんど無く、開国したばかりの日本の快挙は、欧米人を大いに驚かせました。

咸臨丸の技術面に詳しい三郎助、当然この航海の一員としてアメリカに渡ったと思いますが・・しかし、この時、咸臨丸に三郎助の姿はありませんでした。

なぜ三郎助は選ばれなかったのでしょう?・・そこには咸臨丸の艦長である勝海舟との確執があったのです。

長州藩吉田松陰は、三郎助と親しい桂小五郎に宛てた手紙でこう嘆いています・・「勝も中島も得難い才能の持ち主なのに、お互い犬のようにかみ合っているのは天下国家にとって残念なことである」

作家 佐々木譲さん
「中島三郎助と勝海舟の気質が合うはずがないのです・・勝海舟はインテリだけど何一つ物を作り出すタイプではなかった『政治的』な人間です・・一方、三郎助は謹厳な軍人・役人で技術者タイプなので反りが合うわけ無いのです」

文久元(1861)年 三郎助41歳、そしてこの頃、もう一つの不幸が三郎助の身に振りかかります。持病、喘息の悪化です・・咸臨丸が太平洋を横断した翌年、三郎助は健康上の理由として軍艦操練所を辞職・・一度は駆けあがった高みから再び浦賀の一与力へと逆戻りする事になったのです。

中島三郎助の人柄について桂小五郎は、「先生は実に清廉潔白な人だった・・先生のかたわらにいると心潔く身の清らかなる思いがした」・・と語っています。

一方、晩年の三郎助をよく知る医師、高松凌雲によると、「中島という人は、まことに強い人でありましたが終始冗談ばかり言って人を笑わせる人でありました」・・と語っています。

三郎助の人柄をうかがわせるエピソードは地元、浦賀にも残されています・・当時、浦賀奉行所周辺の町には、これといった産業がありませんでした。

そこで三郎助が尽力して徳川御三家の一つ水戸藩に働きかけ、水戸藩が扱う塩の販売権を獲得、町の発展に大きく貢献したと言うのです。

横須賀開国史研究会会長 山本詔一さん
水戸藩が洋式船を作ろうとしたとき、それを助けたのが中島三郎助でした・・そして水戸藩が三郎助にお礼をしたいと言った時、三郎助は、”私は武士で碌をもらっているので受取れない”・・その代わりに浦賀に塩の専売権をもらったのです」

清廉潔白で人情味があって地元の為に一生懸命働いてくれる・・三郎助はそんな理想的なお役人だったんです。

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
「世にも数奇なラストサムライ 幕末・中島三郎助」

北海道の南の玄関、函館、幕末から国際貿易港として栄え、今も異国情緒あふれる街並みが残されています・・商店街には、『中島町』とあります。

中島町会 山田純さん「中島三郎助親子が戦死した場所という事で決めた町名です」

町の一画にひっそりと立つ小さな石碑、刻まれているのは”中島三郎助父子最後の地” 浦賀に黒船が来た運命の日から16年、三郎助の数奇な人生、北の大地で向かえたのは、まさしくサムライとしての最後でした。

episode3
私には譲れないものがある
~函館に散ったラストサムライ
慶応4(1868)年1月 中島三郎助48歳、徳川方(旧幕府勢力)と薩摩・長州を中心とする新政府軍との間で戊辰戦争が勃発・・朝廷を味方に付けた新政府軍は徳川家を朝廷の敵として決めつけます。

結果、徳川方は惨敗、4月、徳川家は江戸を新政府軍に明け渡し、その後、領地の殆んどを奪われます・・浦賀奉行所も新政府に引き渡されました。

中島家が代々努め忠義を尽くしてきた場所が失われたのです・・この年、新政府の幹部となった桂小五郎木戸孝允)が三郎助の家を訪ねています・・軍艦の技術に長けた三郎助に新たな国造りへの協力を求めようとしたのです。

しかし、そこに三郎助の姿はありませんでした・・彼は旧徳川幕府の一員として新政府と対決する決意を固めていたのです。

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上記画像は、この時の心境を記した『出陣状』です・・中島家が代々徳川家に仕えその恩を受けてきた事を記した後、 「天皇のそばにいる悪人どもが徳川家に冤罪を負わせた。三郎助と息子、恒太郎、英次郎の三人は、徳川家の恩に報いる為、出陣する」

幕府の崩壊により、誠実な役人という生き方が否定された時、三郎助は命をかけて戦うと言うサムライとしての生き方を選びとったのです。

三郎助は2人の息子と浦賀奉行所の同僚たちとともに旧幕府海軍の艦隊に参加します・・艦隊を率いるのは榎本武揚、当時、東洋最強と言われた軍艦、開陽丸を中心とし圧倒的な戦力を誇ります。

慶応4(1868)年8月19日、榎本艦隊は江戸・品川沖を出港、一路北へ向かいます・・目指すは函館、北の海の要衝です。榎本は西洋式の城、五稜郭を本拠に強大な海軍力を活かして新政府に対抗しようとします。

明治元(1868)年10月20日、北海道に上陸した旧幕府側は、元新撰組土方歳三らの活躍により、新政府側を撃退・・更に開陽丸を新政府側の拠点・江刺に派遣します・・海から強力な砲撃を加え江刺を制圧しようという作戦でした。

明治元(1868)年11月15日、夜にわかに天候が悪化します・・北の海特有の激しい風、開陽丸は江刺沖の岩礁に乗り上げてしまいました。

この時、三郎助は岩から引き離そうと大砲を一斉に発射させたとも言われています・・必死の努力もむなしく開陽丸は江刺の海に沈没・・三郎助たちが開陽丸に託した勝利への希望が失われたのです。

作家 佐々木譲さん
「船に憧れ、船を造り、船に乗り、船を中心として戦おうと思っていたのにその船を失った・・もの凄い喪失感だったでしょう」

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明治2(1869)年5月 三郎助49歳、明治新政府の大軍が函館に押し寄せました・・迎え討つ旧幕府方、三郎助は、千代ヶ丘陣屋という砦の指揮を受け持ちます。

千代ヶ丘陣屋は、本拠地・五稜郭の南西、1.5キロ、五稜郭を守る最後の拠点です・・ここを守る兵士の中には、三郎助の2人の息子や浦賀時代の同僚達も共にいました。

ここで三郎助は、浦賀の知人に宛て最後の手紙を送っています。
「いよいよ討ち死にと覚悟いたし候・・ついては留守宅、婦女子共、この上何分ご温情願い奉り候」(浦賀の知人への手紙 明治2年5月7日)

明治2(1869)年5月11日、明治政府軍の総攻撃の中、土方歳三が戦死・・敵は次第に三郎助の千代ヶ丘陣屋に迫ります。

この頃、五稜郭で指揮をとる榎本は、千代ヶ丘陣屋の三郎助に使者を送り、五稜郭への引き上げを提案しました・・しかし三郎助親子はこれをキッパリと断ります。

幕府の一員として、そしてサムライとしてどうしても譲れないもの三郎助はそれを最後まで貫こうとしたのです。

作家 佐々木譲さん
「三郎助は、この歴史の大転換の中のほとんどの大事な場面に係ってきた人間、それを見事に1本の筋を通して生きた男です・・ラストサムライ・・本当に最後の侍だった。

明治2(1869)年5月16日未明、新政府軍は千代ヶ丘陣屋に猛攻撃をしかけました・・三郎助の戦いは様々に伝えられています。

押し寄せた大軍にさかんに砲弾を浴びせかけた
傷ついた身体で敵の中に斬り込んだ

中島三郎助 戦死 享年49

千代ヶ丘陣屋は陥落、三郎助の息子2人も戦死しました・・これを最後に本格的な戦闘は終結、2日後、五稜郭は降伏します。

激動の幕末は、その始まりに立ち会った男の死とともに静かに幕を閉じたのです。

三郎助が2人の息子とともに戦死したことで後には、妻と3人の娘、更には生まれたばかりの幼い息子、与曾八が残されました。

男手を失った家族の暮らしを三郎助と強い絆で結ばれた友人たちが助けたと言います・・明治政府の重役となった木戸孝允桂小五郎)、函館戦争の後・明治政府の要職を歴任した榎本武揚、そして故郷・浦賀の町の人々です。

こうした周囲の温かい支援を受けて成長した与曾八は、やがて海軍に入り、エンジンの専門家として活躍、中将にまで上りつめました。

近代造船のパイオニアだった父・三郎助の意志を見事に継いだと言えます・・三郎助の人柄や生き方は後々まで人の心を動かし続けたのです。

それは現代でも・・・
函館では、三郎助が亡くなった5月に毎年開催される中島三郎助祭り・・ここで静かに続けられてきた行事が地元の人たちによる三郎助親子の法要です。

毎年、三郎助の故郷・浦賀からも参列者が訪れます。

浦賀・中島三郎助と遊ぶ会 大内透さん
「万人・庶民、浦賀の人たちに敬愛されている形容しがたい底力みたいなものを感じます」

浦賀の町を見下ろす山の頂、三郎助を悼む招魂碑です・・函館の死から20数年後、彼を慕う浦賀の人々の手で建てられました。

激動の幕末に最後まで自分の生き方を貫いた中島三郎助・・あの日、黒船が現れた浦賀の海は、穏やかな波をたたえてどこまでも広がっています。