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復興のカギは民にあり ~幕末・安政大地震に立ち向かった男~

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BS歴史館 復興のカギは民にあり
~幕末・安政地震に立ち向かった男~

2011年3月11日、東日本を襲った観測史上最大M9.0の大地震・大津波

今から約150年前、安政元(1854)年11月5日、江戸時代の終わりに大地震が災害をもたらしました・・西日本で数千人の死者を出した安政南海地震M8.4、このとき津波に襲われた和歌山県の小さな村で大勢の村人の命を奇跡的に救った一人の男がいました。

紀州藩広村の商人・濱口梧陵です・・地震の直後に村を襲った巨大津波、濱口梧陵は意外な方法で村人を高台に誘導し住民たちの命を救ったのです。

驚きの救出劇を成功に導いた雄大に流れる黒潮と身近な醤油との不思議な歴史的関係とは…そして素早い復興・・巨大地震津波に立ち向かい、村の復興を成し遂げた濱口梧陵・・幕末から明治に生きた彼の活躍を通して震災復興のカギを探ります。

和歌山県広川町、濱口梧陵が村人の命を救ったかつての紀州藩広村は、太刀魚やシラスなどの漁場に恵まれた小さな村です。

海抜の低い町の中心部は過去、100年~150年ごとに幾度も津波に襲われてきました・・中でも広川町に今も語り継がれる津波が江戸時代の安政元(1854)年11月5日に起きた安政南海大地震によって起きた大津波です。

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地震震源和歌山県沖合、広村は震度5強の揺れの直後、高さ4.2mの津波に襲われます・・東日本復興委員を努めた河田惠昭さんは、このときの津波は広範囲に被害をもたらした幕末最大級の津波だったといいます。

関西大学 社会安全学部長 河田惠昭さん
津波の大きさとしては、今回の東日本大震災の1/2ぐらいでしょうかね・・しかし、当時どの村にも防波堤なんか無かったわけですから、その怖さは今回の東日本大震災と同じだったと思っていいと考えます」

安政の大地震に立ち向かった濱口梧陵、当時35歳、紀州広村出身で醤油業を営む商家の7代目でした・・時は、安政元(1854)年11月5日、紀州広村の人々を救った軌跡の救出劇、梧陵が残した記録とともに辿ります。

「七ツ時頃に至り大震動あり、瓦飛ぶ、壁崩れ、塀倒れ、塵煙空を覆う」(濱口梧陵手記より)
午後4時頃、突然の激しい揺れ、家族の安否を確認した梧陵は外に飛び出します・・台地はひび割れ、家屋は崩れ、辺りには砂煙が立ち込めていました・・海岸に出た梧陵は異変に気付きます。

「巨砲の連発するが如き響きをなす 数回、伝え聞く大震の後、津波の襲い来るありと」(濱口梧陵手記より)
沖合から響いてくる大砲の連発するような音、その音に梧陵は津波の到来を予感、村人たちに避難を呼びかけました。

「村民一統を警戒し、氏神八幡境内に立ち退かしむ」(濱口梧陵手記より)
梧陵が目指したのは、海抜10mにある廣八幡神社、村の遠い所からの距離は1.7キロ、地震直後は瓦礫が道を塞ぎ駆け足でも20分は掛かったと推測されます。

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現代のシュミレーションによると110キロ離れた海上津波が発生、広村には地震発生から40分後に第一波が到達する計算です。

そして津波到来、2階家を遥かに超える大波、梧陵と村人たちは半身水につかりながら広八幡神社を目指します・・梧陵の呼びかけで村人の多くは廣八幡神社に避難、命を救われました・・しかし真冬の夕暮れ辺りが暗闇に包まれる中、第2波、第3波が広村に迫っていたのです。

梧陵は逃げる方向を見失い、逃げ遅れた村人たちに気付きます・・刻々と近づく更なる津波、暗い足元・・梧陵がとっさにとった大胆な行動は…

「路傍の稲むらに火を放したむるもの重う余り」(濱口梧陵手記より)
濱口は突然、田んぼに積み上げられた稲藁に火を放ちました。

「以て漂流者に其身を寄せ安全を得るの地を表示す」(濱口梧陵手記より)
暗闇に忽然と浮かび上がった炎、逃げ遅れた村人たちに廣八幡神社が照らし出されました・・梧陵を先頭に村の若者たちが次々と火を放ったのです。

稲藁は村の暮らしには大切な物、それを積み上げた稲藁に火を放ち避難経路を示すという驚くべき発想、その火を頼りに村人たちは高台に辿りつきました。

梧陵の津波に対する迅速な判断と行動が多くの命を救ったのです・・この地震津波で人口の半数近くを失った村もありました・・しかし広村の死者は30人(30人/1323人中)村人の97%が救われたのです。

今年(2011年)から全国の国語の教科書に安政南海地震での濱口梧陵の活躍が掲載されるようになったのです・・知られざる濱口梧陵の存在に今こそ光が当てられています。

歴史的には全く無名の存在だった濱口梧陵ですが、戦前にも濱口梧陵の活躍が教科書に載っていたのです・・実は濱口梧陵、外国人の方がよく知っているのです。

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作家 小泉八雲ラフカディオ・ハーン(1850~1904)
小泉八雲が日本を外国に紹介した本(明治30(1897)年刊行「仏の畑の落穂」)で『Living Good』というタイトルのエッセイが一番最初に載っています。

Living Good=生き神様、として濱口梧陵を外国に紹介しているのです・・そして日本に逆輸入で和訳されて入ってきているのです。

外国人である小泉八雲ラフカディオ・ハーンが日本人の良さを発見してくれたんですね・・3.11の震災でも整然と配給に並ぶ風景、助け合いの精神などを称賛する声が外国人から上がりましたね。

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梧陵は被災者の援助にも力を注いでいました・・『安政聞録』(安政4年編纂)には当時の様子が記録されています。

ここには梧陵が隣村から米を借り入れたり、長屋を建てたりして村人たちの当面の暮らしを支えた事が記されていました・・しかし問題は広村も復興、梧陵は津波の後の村の惨状をこう記しています。

「人家は概ね崩壊して唯ニ三の旧態を存するあるのみ、人生の悲惨ここに至りて極れりというべし」(濱口梧陵手記より)
家を流され田畑は塩水につかり、生活の手段を失った村人たち、相次ぐ余震と冬の厳しい寒さで病に倒れる人が後を絶ちません・・なによりまた襲ってくるかもしれない津波の心配があります。

次々と広村を離れて行く村人たち、村は存続の危機にありました・・頼みの紀州藩はこの全域で被害を受けたため一行に支援策を打ち出す事が出来ません。

”生活の援助だけじゃもう駄目だ”と梧陵は紀州藩に手紙を出します。

「波除土手の増築、御免許蒙奉候、右工費はおそれながら私如何様にも勘弁仕る」(濱口梧陵手記より)
津波を防ぐ堤防、その建設許可だけを求め工事費の一切を自分で賄うというのです・・広村の行く末に復興の光が差し始めました。

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梧陵が計画した堤防は、広村の両端にある川の間の海岸、全長900mの及ぶ大堤防を築き、津波から村を守る計画、膨大な費用がかかる土木事業です。

それを藩に頼らず濱口の事業から上がる収益で賄ったのです・・濱口家の事業の柱である醤油製造所(現 ヤマサ醤油)は、千葉県の銚子市にあったのです。

実は、紀州と房総半島は黒潮で結ばれていて海運上はとても近いのです。

幕末当時、銚子は大消費地江戸まで利根川で行く途中の中継地点、海運の拠点だったのです・・ここに醤油製造所を設けていた濱口梧陵は、醤油の江戸納入に関しては一社独占状態で莫大な利益を上げていたのです。

そして銚子から広村への堤防工事の工事費送金が行われたのです・・梧陵は技術者、労働者を村の外には求めず地元の村人の労働で賄ったのです。

女性や子供にまで日当を支給、工事につかせました・・村人が自ら力を合わせ村を守るそんな思いもこもっていました・・何より雇用を作りだしたのです。

しかし、それから8カ月後、安政2(1855)年10月2日・安政江戸地震が発生、南海、東海地震と並び安政3大地震の一つと呼ばれたこの地震で江戸は壊滅状態、5000人近くの死者を出しました。

濱口家の江戸支店も閉鎖、広村の復興計画は資金継続の危機に直面したのです・・工事費の総額は濱口家の資産の2割に相当し、梧陵の広村支援に関して店の経営陣や親族からも広村への送金中止が求められました。(堤防建設の総額 1572両=5億円)

周囲の反対を受けても梧陵は送金を継続します・・そんな梧陵の信念が銚子の職人たちの心を動かします・・自分たちが復興資金を稼がなくてはならないと力を合わせてその年の醤油生産量は過去最高を記録しました。

このようにして梧陵の執念で被災から4年後、大型堤防は完成をみます・・世界で初めての津波対策堤防です。

高さ4.5m、奥行き20m、・・斜面の海側は6000本の松の木が植えられており、堤防の補強材と被害を最小限に抑えることを考えています・・堤防を越えて津波が来た時、海に引き込まれる村人を松林で引っかけて阻止する役目です。

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濱口家に家宝として残されている屏風です・・安政7(1860)年に描かれた屏風には、僅か6年で復興をとげた広村が描かれています。

物売りが行き交う目抜き通り、港には各地の産物が運ばれてきます・・そして村人たちの安全を守り、憩いの場となった堤防、そこには宴を楽しむ人々の姿もあります。

梧陵は堤防建設の理由をこう記しています・・

「災害百般の庶政に従事し、衆とともに生命を繋ぐも今尚、坐して席の暖かならざるを覚ゆ、是れ築堤の工を起こして住民百世の安堵を図る所以なり」(濱口梧陵手記より)
災害に対応し、村の人たちと命はつないだけれども心休まる時はなかった、だからこそ住民百代の安心を目指すのである。

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昭和21(1946)年12月21日、堤防完成から88年後、和歌山県沖でマグニチュード8.0の昭和南地震が発生、高さ4mの津波が再び広川町を襲いました。

安政の大地震では集落全てが浸水したのに対し、昭和の地震では堤防のおかげで市街地はほとんど被害を受けませんでした。

■梧陵が百世の安堵を願った堤防は、88年の後、村を守り現在の広川町があるのです。

■その後の梧陵は、政治家として1868年(慶応4年)には、商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行(のちの出納長に相当)に任命され、後には藩校教授や大参事(のちの副知事に相当)を歴任するなど藩政改革の中心に立って紀州藩和歌山県経済の近代化に尽力した。

■その後、1871年明治4年)には、大久保利通の要請で初代駅逓頭(えきていのかみ)(のちの郵政大臣に相当)に就任するが、半年足らずで辞職する。

1880年明治13年)、和歌山県の初代県議会議長に就任した。そして、国会開設に備えて、木国同友会を結成した。1885年(明治18年)にかつての夢だった世界旅行に行くも、アメリカ・ニューヨークで病没した・・享年66(満64歳没)。