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幕末・日本外交は弱腰にあらず! 黒船に立ち向かった男たち

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BS歴史館 幕末・日本外交は弱腰にあらず! 黒船に立ち向かった男たち

しばしば弱腰と物議をかもしだす日本外交、その始まりは、この事件でした…嘉永6(1853)年6月3日、巨大な4隻の軍艦が浦賀沖に現れました。…アメリカ海軍提督ぺりーが圧倒的軍事力を背景に日本に開国を迫った、いわゆる黒船来航…。

嘉永7(1854)年、幕府はペリーの要求に屈し日米和親条約を締結、無理やり開国させられた。…更に4年後、安政5(1858)年、アメリカ領事ハリスに迫られ、日米修好通商条約を締結…「弱腰外交」は幕末から始まったというのが日本人の常識…ところが近年の研究でその常識が覆されているのです。

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天下泰平が続いた江戸時代、徳川幕府鎖国政策を守り、唯一、長崎の出島でオランダと中国に限り、貿易を許していました。

嘉永6(1853)年6月3日、ところがペリー艦隊4隻は、幕府の決まりを無視し、長崎ではなく江戸に近い浦賀沖に出現、…6月6日、更に黒船は江戸湾・品川沖まで侵入、大砲の射程距離まで入った江戸は、パニックに陥りました。

ペリーは、アメリカ大統領の親書を幕府に突き付けます…そこには大きく3つの要求が記されていました。
1.日本に漂着した漂流民の保護
2.外国船への燃料や食料の供給
3.貿易の開始(実質的な開国)
ペリーは、回答の期限を翌年5月に定め、一旦日本を離れました。

幕府は対策を検討します…漂流民の保護と燃料の補給はこれまでも長崎で行ってきた事、しかし貿易は長年の体制を揺るがす大問題、簡単に結論は出ません。

嘉永7(1854)年1月11日、翌年ペリーは、予告より3か月も早く来航、艦船を9隻に増やし、条約交渉を迫ります。ペリーが日本側に伝えた言葉が残っています。

条約の締結が受入れられない場合
戦争になるかもしれない
当方は近海に50隻の軍艦を待たせてあり
カリフォルニアには更に50隻を用意している
これら100隻は、20日間で到着する。

圧倒的な軍事力を背景に開国を迫るペリー…交渉の日、アメリカ側総勢466名が横浜村に上陸、黒船艦隊が大砲を向けていました。

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日本全権は、林大学頭復斎…彼は幕府の教育機関である、昌平坂学問所の塾頭でした。…国の命運をかけた交渉になぜ学者が選ばれたのでしょう?

明海大学 教授 岩下哲典さん
「万が一、失敗すると将来に渡って禍根を残します…言ってみれば、”学者がやった事だから”的な形で済ませられるようにです」

追込まれた状況で最前線に立たされた林、しかし記録によれば林は、黒船とペリーの強引な攻撃をかわし、弱腰イメージを覆す死闘を繰り広げていたのです。

 

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嘉永7(1854)年2月10日 第1回交渉
第1ラウンド

林は、相手との間合いを図ります…「遠路再びの航海、大儀に存じ上げる」長旅をねぎらった林。

対するペリーは、先制パンチを繰り出します。…「本日の祝いとして将軍様に21発、林大学頭様に18発、更に初めての上陸に対して18発の祝砲を撃ちたい」…まさに砲艦外交の始まり、祝砲とはいえ50発以上の砲声が日本側を威嚇します。

しかし、林は動じません…当てが外れたペリー…林は冷静に日本側の回答を示します。…「昨年の貴国、大統領からのご要望にお答え申す。薪、水、食料を与える事は、これまでも実施している通り、差し支えない…漂流民の保護も我が国の法に定められている通り承諾する。しかし、第3の交易については、我が国の法によって固く禁じられている」

 

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きっぱりと交易拒否を伝えた林、意表を突かれたペリーは、林の回答には答えず恫喝する作戦に出ます。…「我が国は以前から人命尊重を第一としてきた…しかし貴国が人命尊重をするという話を聞いた事が無い…難破船を救助せず、海岸近くに寄ると発砲するという…更に漂流民を罪人同様に扱っていると聞く…今後も態度を改めなければ我が国は国力を尽くして戦争し、雌雄を決する覚悟である!!」

戦争を突き付け恫喝するペリー…しかし、林は冷静にかわします。…「戦争になるやも知れぬと申されるがあなたの言う事は事実に反している…伝聞の誤りでそのように思いこんでいるようだ」…林は、ペリーの認識は誤りだと指摘します。

いったいどういう事なのか?…ペリーが難破船を救助せず発砲と非難したのは、かつて幕府が『異国船打払令』で外国船を拒んでいた頃の事、しかしペリー来航の11年前には、すでに打払令を廃止、『薪水給与令』という外国船に燃料や食料を与える従来の方針に戻していたのです。

更にペリーが漂流民を罪人同様に扱うと非難したのがアメリカの捕鯨船ラゴダ号が漂着した事件、しかし真相は、アメリカ船員同士で殺人事件が発生、やむなく監禁したのが実情でした。

ラゴダ号事件の誤解も即座に正します。「漂流民の中には、良からぬ者もいるのでしばらく拘禁したこともある…それらの者があたかも罪人のように扱われたと言いふらし、誤った伝聞が広まったものと推察する…我が国に非道な政治など無く、貴国と我が国の間に戦争に及ぶほどの事などもうとうありません」

林の事実に基づいた揺るぎない反論にペリーは、「貴国があなたの言われるような国柄で船に薪や水を与え、漂流民を温かく扱うのであれば、これ以上、言う事はない」…ペリーの脅しは、林には通用しなかったのです。

都留文科大学 学長 加藤祐三さん
「林というのは、例を一つ一つ挙げて論破して、きちんと正々堂々とやりあってこれが弱腰とは言えません」

相手を恫喝し、交渉を有利に進めようとしたペリー、その攻めに屈しない林の防御が光りました。

交渉第2ラウンド 交易をめぐる攻防
ペリーは、日本側に交易のメリットを主張します…「交易の件は、なぜ了解しないのか…交易が盛んな国は、国の富は増し、国力も強くなっている…日本も交易によって利益を得るべきだ」

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対し林は、「日本においては、自国の産物で十分足りております。したがって交易をいたさぬ定めとなっており、この国法をただちに廃する事はでいませぬ」…交易拒否の大原則でガードする林…そこには、切実な理由がありました。

隣国、清で起こったアヘン戦争(1840~1842)…そのキッカケは交易でした。イギリスから大量のアヘンが密輸され清がこれに反発したところ戦争に発展、イギリスの圧倒的な武力の前に大敗した清は、条約を結ばされます。

膨大な賠償金を課せられた上に香港を割譲する事になったのです。(南京条約 1842年)…貿易開始がアヘンの流入に繋がり、更には戦争に発展する…林が最も避けなければならない事態でした。

林はペリーが交渉で使った言葉を逆に利用します…「先にあなたは、第一に人命の尊重と申された、交易は人命とは関係ない、談判は済んだのではありませんか」…ペリーは反論できません。

そしてペリーは、「あなたの言われた事はもっともである…確かに人命尊重とは関係ない、交易の件は強いて主張しない」…この日は、交易拒否という大前提を守りきった林、しかしペリーは次の作戦を考えていました。

 

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嘉永7(1854)年2月19日 第2回交渉

ペリーは、長崎以外の新たな開港地を要求します…「薪や水を受けとる地としてを新たに5、6ヶ所の港を定めて欲しい」…開港地を増やして交易につなげる作戦です。

ペリー:「長崎の事は承知しているがまことに不便な場所である。是非とも日本の東南に5、6ヶ所…北に2、3ヶ所の港を定めていただきたい」

林:「長崎は不便で有れば、いずれ東南の地に都合のよい場所を定める所存である」
ペリー:「東南の場所とはどこか」
林:良く調べた上でばければ返答しかねる」
ペリー:「あなたは、この交渉の全権である…是非とも即答を願いたい」

林の言質を取ろうとするペリー、…しかし林は、強く反論します。

林:「無理な事を言われる…それほど長崎以外の港を御望みなら、なぜ昨年の親書に記さなかったのか…当方は長崎を予定し、何の異存もないはずと考えていました」

ペリーは動揺し、主導権を手放してしまいます…「確かに昨年の書簡には記していない…3日はお待ちするがなるべく急いでもらいたい」

林:「7日後の面会の際にお答えする」…これ以降、交渉は林のペースで進みます。


嘉永7(1854)年2月26日 第3回交渉
ペリー:「薪、水などを受け取る港はどこに決められたか」
林:「南は下田、北は函館の2カ所である」
…下田と函館の開港合意。

嘉永7(1854)年2月30日 第4回交渉
外国人の行動範囲について…
ペリー:「港から四方へ10里ぐらいを望む」
林:「薪、水を得るだけなら町内だけで十分ではないか…遠方まで行く理由が見当たらない」
…遊歩地 7里以内。

この外国人の行動範囲、7里には林の計算がありました。

 

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東京大学 教授 三谷博さん
アメリカ人が居留地の外に出て歩きまわる…いずれ貿易を行う時が来るかもしれない…そこで日本側としては、その範囲を狭めたい…7里というと天城峠より北には来れないという計算があったのです」

ペリーの10里に対し、林が主張した7里、そこには外国人と日本人の必要以上の接触を防ぎ、勝手に交易を始めないよう監視する意味があったのです。

嘉永7(1854)年3月3日、こうして日米和親条約調印、締結された条約は、全12カ条…主な内容は、日米の友好を謳い、新たな薪水給与の港として下田・函館を開港、漂流民など外国人の行動を港から7里の範囲に制限しました。

更に薪水給与の物品でさえ、自由なやりとりを禁じ、厳しき交易を制限しています。…ペリーと林の20日間に及ぶ外交交渉、お互いの健闘を讃え、最後はこんなやりとりで終わっています。

 

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ペリー:「貴国の厳しい国法をうかがっていたがこのような親睦の誓いを結ぶ事ができた…今後、日本が外国と戦争に至った時には、軍艦、大砲をもって加勢するつもりである」

林:「御好意かたじけない」

佛教大学 講師 町田明広さん
日米和親条約の段階では、日本はまだ開国していません…鎖国政策を維持できたと天皇から庶民に至るまで日本人はそういう理解でいたと思います。…通商を押し返して和親の状態で押しとどめた事について言えば外交上は成功だったと言えます」

時の孝明天皇も条約締結を喜んだといいます。…交渉の前後、半年間、日本に滞在したペリーは、職人の技術の高さや庶民の探究心の強さに驚嘆、こんな言葉を残しています。

「日本人が一度、文明世界の技能を手に入れれば強力なライバルになるだろう」

軍人ペリーが9隻の軍艦を持ってしても果たせなかった日本との通商、一人の商人がその固い扉をこじ開けます。

 

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安政3(1856)年7月21日、タウンゼント・ハリスは、アメリカ領事として来日します。アジアで貿易の経験を積んだ彼は、新たな市場として日本との通商を狙っていました…彼が日本駐在の根拠としたのが日米和親条約の条文でした。

第11条は、アメリカの役人が下田に駐在する可能性を含んだ曖昧な条文でした…そこに目を付けたハリス、彼の交渉の武器は貿易の経験に加え、国際情勢を利用する事でした。

隣の清では、英国船の取り締まりをキッカケにイギリス、フランス連合軍との間にアロー戦争が勃発、アヘン戦争以上のダメージを受けていました。…そして次は日本が狙われていたのです。

ハリスは、アメリカと通商条約を結ぶ事が日本の国益を守る事だと主張します…「私のように平和の使者としてやってきた人間の公正な希望を聞き入れるか、イギリスの武力による不当な圧迫に屈するか、今や問題は、いかなる形で貿易を始めるかだ」

幕府は、下田の玉泉寺を領事館として当てがいハリスとの交渉役を決定、日本側の全権の一人が目付・岩瀬忠震(ただなり)でした…30代の若さで目付に抜擢され、講武所(武芸訓練機関)、蕃書調所(洋学研究教育機関)、開設や品川砲台建設にも携わった岩瀬、彼は外国奉行という外務官僚のトップに上り詰めた幕末を代表するエリートでした。

 

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実は、この男こそハリスと並ぶ開国の仕掛け人だったのです…ペリー来航後、近代的な軍事力を背景に通商を迫る西洋列強にどう対抗するか幕府内でも意見が分かれていました。

1.従来通り、貿易を拒否して外国を徹底的に打払うべきだという攘夷派
2.一方、徐々に勢力を増したのが開明派、外国文明を吸収し、貿易の利潤で富国強兵を進めいずれ西洋に対抗しようという人々。

開明派の中心にいたのが岩瀬です…岩瀬は開国後のビジョンを老中首座・堀田正睦に提案、そこには地方特産物の輸出や蝦夷地の開発など具体的な実行目標が挙げられていました。

更に年貢に頼っていた幕府の財政を見直し、貿易による収入で賄うために岩瀬が提案したのが横浜開港でした。…江戸は政治の中心ではありますが経済の中心は大阪、大阪に経済的富の7割~8割を持っていかれているのが江戸時代でした。

貿易の利益を幕府に集中できるようにしたい…そこで江戸・横浜圏で政治と経済の中心がおかれるとなると幕府にとって非常に都合がいいのです。

横浜を大阪に並ぶ経済の中心地として構築する…しかも横浜には、開国による混乱を最小限に食い止める狙いもあったのです。…西洋人を一定の区画に閉じ込めておく、巨大な出島としての役割を持っていたのです。

安政4(1857)年10月14日、ハリスが江戸に到着、いよいよ条約交渉が始まりました。
安政4(1857)年12月4日、ハリス、条約草案提示…目指すは、貿易の開始、しかし日米双方の思惑は大きく異なっていました。

ポイントは開港地の数と場所、アメリカは、大阪など8カ所の開港と京都など大都市での自由貿易を求めていました。

 

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安政4(1857)年12月11日、午後2時交渉開始
岩瀬忠震:「日本は、国が狭いので3港以上開かぬ事に決めた…下田は閉鎖してもっと大きな港、横浜を提供しよう…当面は、長崎、函館、横浜の3港に決めたい…そしてわが国の大名全体が貿易の結果に満足してから他の港を開く事にしよう」

ハリスは、横浜開港は合意しますが、より多くの港を開港する事を迫ります。…「貿易の港は、多ければ多いほど良いのだ、関税による政府の財源も増大する」…ハリスの狙いは、経済の中心大阪でした。…「大阪からアメリカ人をしめだす限り、自由貿易とはいえない」。

しかし岩瀬にとって大阪を開けば、そこが貿易の拠点となってしまい、新たな江戸・横浜経済圏を築く事が出来なくなります。…さらに大阪開港には深刻な問題がありました。

国内では、外国人を排斥する攘夷運動が激しくなっていました…特に朝廷のある京都は攘夷運動の拠点、大阪を開港し、京都に外国人が入れば流血の事態になる事は確実でした。…外国人を京都と大阪に入れる事は避けなければならなかったのです。

 

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安政4(1857)年12月19日、交渉6回目
交渉が進んで行くにつれ、問題は京都の市場開放と大阪開港にしぼられていきました…岩瀬は、「京都をアメリカ人に開く事は、絶対に不可能である…これは日本人の宗教と結びついている、商用の土地柄ではない…京都を外国人に開くとすれば謀反を引き起こすことになる」

岩瀬は更にアメリカ大統領を引き合いに出します…「もし貴下の大統領が日本の親切な友人であるなら、無秩序と流血をもたらすような事を主張するはずが無い」

ハリス:「なるほど…京都については、おっしゃる通り、引き下げる事にしよう」…京都は断念したハリス、しかし日本最大の経済圏である大阪は譲りません。

ハリス:「大阪は、商いに最も適した土地で交通の便もよく、人口も多い…大阪で商いが出来なければ利益は1/10になってしまう」

貿易による日本の国益という正論で詰め寄るハリス。…岩瀬は思い切った懸けに出ます。大阪開港で攘夷運動が起こり、内乱になる危険性を逆に利用したのです。

岩瀬:「内乱が起こるのは、外国との戦争よりも恐ろしい…もし諸外国がこの件を理由に日本と戦争をしようというなら我々も全力で応戦する覚悟だ」…内乱が起こるなら外国と戦争をする方がましだ。そう言い放った岩瀬…・。

その気迫に押され、ハリスも大阪を諦めます。…妥結の方向へ向かった交渉、二人は条約の草案を全14条にまとめました。

開港地は、当初ハリスが要求した10ヵ所から5港(横浜・長崎・新潟・兵庫・函館)に限定、…兵庫は大阪を断念したハリスに対し、日本側が妥協点として提案した港でした。

後に不平等条約といわれる要因となった、領事裁判権(外国人を自国の法律で裁く事が出来ない)と関税自主権(関税を自国で決める事が出来ない)の問題、岩瀬の想定では、十分対処できる事だったといいます。

領事裁判権に関しては、外国人を居留地封じ込めに成功したからは、問題無し…関税自主権も当時の取り決めは20%ですので、どう考えても不平等ではないのです。

ハリスは、後に岩瀬との交渉についてこう語っています…「岩瀬は機敏で反論が次々出てきた…私は答弁に苦しんだばかりではなく、岩瀬に論破されてしまい修正せざるを得なかった条項が多かった」…後は、条約に調印するだけのハリスと岩瀬、しかしその前に大きな壁が立ちはだかったのです。

ほぼ岩瀬のプランに沿って進んでいた条約交渉、しかし調印を前に攘夷派が激しく抵抗します…そのリーダー的存在の元水戸藩主・徳川斉昭は、「老中首座の堀田は切腹、ハリスの首を刎ねろ」と激怒したといいます。

岩瀬と堀田は、天皇の許可を得れば攘夷派は抑えられると考え、京都へ赴きました。

安政5(1858)年1月25日、岩瀬・堀田 上洛…堀田は、孝明天皇に謁見し、勅許を求めます。しかし、天皇は貿易に反対、攘夷派の公家や大名が手を結び条約拒否を進言していたのです。

安政5(1858)年3月20日、勅許失敗…岩瀬の目論見は外れました。勅許の失敗で開国路線を進めていた堀田正睦が失脚、代わりに実権を握った大老井伊直弼は、勅許が無ければ調印はしないという考えでした。

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大きな後ろ盾を失い追込まれていく岩瀬、激しく調印を迫るハリス…。

安政5(1858)年6月18日、そこにアロー戦争の最新情報がもたらされたのです…清国に圧勝した英仏連合軍が5日以内に日本に到着し、通商条約の締結を迫るだろうというのです。

英仏の武力に屈し、不利な条約を結ばされれば全てが水の泡になる…思いつめた岩瀬は、ハリスに頼みます。…「日米条約を調印すれば、英仏が何を言おうともアメリカが間に入る事を誓約書にしてほしい」…ハリスは誓約書にサイン、岩瀬はやむ負えない場合は現場判断に任せるという井伊の言質をとります。

安政5(1858)年6月19日、岩瀬はついに、日米修好通商条約 調印にこぎつけました…日本は通商を開始、岩瀬の構想がスタートするはずでした。・・しかし…。

安政5(1858)年9月5日、現場判断で調印した岩瀬は左遷された上、幽閉…井伊直弼に処分されたのです。…ここから安政の大獄が始まり、開明派の進歩的な官僚や蘭学者たちが次々と処分されていきました。

開国によって日本の将来が開けると信じた岩瀬忠震、…処罰の2年後、失意のうちに病死しました。文久元(1861)年7月11日、岩瀬忠震 死去 享年44…開国の志を込めた詩が残っています。

今や国を治める大方針が出来つつあり、
外国への道が開かれようとしている
外国人を日本の味方にして
天地の心を喜ばせたい

しかし、岩瀬が主導した改革は、攘夷運動に拍車をかける結果となりました…生麦事件1862年)、薩英戦争(1863年)、…更に長州藩が外国船を砲撃した事から欧米列強との間に下関戦争(長州VSアメリカ・イギリス・フランス・オランダ)が勃発、幕府がその責任をとらされます。

慶応2(1866)年、その結果、イギリス外交官パークスとの交渉で条約の関税率は、20%から5%に引き下げられました。これによって日米修好通商条約は、名実ともに不平等条約になってしまったのです。

東京大学 教授 三谷博さん
「確かに日本を混乱に陥れたのは、この条約の無断調印ですから岩瀬は責められる対象でありますが…それ以上に評価しなければならないのが、あの段階で条約を結んでおかなければ、日本の植民地化の可能性は十分あったと考えます…日本の将来を考えた上での調印であったのは、歴史的評価すべきです」

幕末のあの時代にアジアで植民地化されなかったのは、日本だけなのです…これは大変な事なのです…やはり、当時の最高の情報網、頭脳、人材を持っていたのは幕府だったという事ですかね。

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