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帝国憲法はこうして誕生した ~明治・夢と希望と国家ビジョン~

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NHK BS歴史館
帝国憲法はこうして誕生した ~明治・夢と希望と国家ビジョン~

憲法誕生!その裏舞台に迫る

目指せ!近代国家
遠い帝国憲法への道
長く続いた江戸幕府が倒れ、日本が近代国家への第一歩を踏み出した明治元(1868)年、この年、京都御所では五箇条からなる新しい政治の基本方針、『五箇条の御誓文』が高らかに宣言されたのです。

その第一条は、「広く会議をおこし、万機公論に決すべし」…広く会議を開き皆の意見を聞いて物事を決めようと謳われています。

しかし、開かれた政治を目指すと宣言したもののこの国の仕組みをどうするのか、その国家ビジョンはまだ出来ていませんでした。

明治4(1871)年11月12日 横浜から日本の期待を乗せた船が世界に向け旅立ちました…明治政府のトップたちが欧米14カ国を回ろうという壮大な計画、その目的は不平等条約の改正と欧米の政治・経済・教育などの視察でした。

 

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使節団は46人、代表は公家出身の岩倉具視、その回りを長州・木戸孝允、薩摩・大久保利通など新政府きってのキレ者が固めていました。…そこに31歳の若き伊藤博文の顔も、長州藩出身で英語も達者、国際情勢への事情通を期待されての参加です。

この旅で新政府トップたちは近代国家のビジョン、憲法の必要性を痛感して行く事になります。

明治4(1871)年12月6日 太平洋を横断した一行は最初の訪問国であるアメリカのサンフランシスコに到着、そこで初めて西洋の文明を目の当たりにします。

明治5(1872)年1月21日 次にアメリカの首都ワシントンに向かった一行は民主主義の心臓部ともいうべき議会を見学します。そこで使節団は闊達な議論の飛び交う議会の様子に感嘆しながらも次のように鋭い指摘をしています。

「議員を公選し法律を多数決で決めるのは一見、実に公平に見える…しかし上下院の議員全員が最高の俊才たちではありえないから、大議論の後に多数決で決めれば上策が採用にならず、下策が採られる事が多い…これらは全て共和政治の残念なところだ」

使節団はアメリカ政府の仕組みを慎重に見守ります。

明治5(1872)年11月16日 続いて一行はイギリスを経てヨーロッパ大陸に移動、たどり着いたフランスは混乱のさ中でした。パリ・コミューンといわれる民衆蜂起事件の余波が未ださめやらず、一行の眼前に広がる瓦礫と化した無残な花の都パリ、自由と権利を与えすぎた民衆の恐ろしさを実感したのです。

アメリカ、イギリス、フランス、3つの大国を巡って1年4カ月、しかし、いずれの国でも日本に合った国家の骨組を見いだせないまま一行はドイツに向かいます。

明治6(1873)年3月7日 ドイツ到着、そこでのある政治家との出会いが使節団に衝撃を与えます。…ドイツ宰相 オットー・フォン・ビスマルクとの出会いです。

 

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出遅れた新興国だったドイツを率い、大国オーストリアやフランスとの戦争に次々に勝利、鉄血宰相として恐れられた人物です。…そのビスマルクが語った国際政治の本質に一行は冷や水を浴びせられます。

「国と国との関係は『万国公法』という国際ルールに基づいている…しかしそんな約束事は絵空事にすぎない。大国は自分に利益がある場合は『万国公法』に従うが、ひとたび不利と見れば、たちまち軍事力にものをいわせてくる」

 

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万国公法とは、19世紀後半にヨーロッパ諸国で広く尊重された国際秩序のルール。
国際紛争が発生した際の取り決め
・平和交渉のやり方
などが記され、使節団はこれを守る事こそが近代国家の証しであると考えていました。

しかしビスマルクはこれを一笑に付し、列強による植民地獲得競争が激しさを増す世界情勢では、『万国公法』は時代遅れの ”ザル法” に過ぎないと語ります。そして日本のような小さな国が生き残る術を使節団にアドバイスします。

「こうした国際社会の中で小国が主権を守るためには、国家を強くしなければならない…そのためにはまず ”国民意識” を養わなくてはならない」

近代国家にふさわしい国民をどのように作るのか、そのためには国家の明確なビジョン、つまり憲法が必要な事を使節団は痛感します。…日本の憲法づくりはここから真のスタートを切りました。


帝国憲法への道
混乱!明治政府

この国に必要なものは憲法である…そう確信して帰国した岩倉使節団、しかし彼らを待ち構えていたのは新政府内の分裂でした。

隣国朝鮮との外交問題の解決を政治の優先課題とした西郷隆盛板垣退助、これに対し、欧米の実力を目の当たりにした岩倉らは国力の充実こそが最優先であると真っ向から対立、政治論争に敗れた西郷らが新政府を離れ、日本各地で反乱が起こります。

中心となったのは江戸時代の特権を失った武士たち…政府はかろうじてこれを鎮圧したものの憲法起草に取り掛かる余裕はありませんでした。政府を尻目に庶民の間に思わぬ動きが広がります…仕掛け人は西郷と共に新政府を離れた板垣退助です。

明治7(1874)年 板垣は民選議院設立の建白書を政府に提出します。国民に選ばれたものが政治に参加できる場所、議会の設立を政府に要求するものでした。

板垣は武力ではなく、言葉の力とそれを支持する人々の数で政治を動かそうと考えたのです。自由民権運動の始まりでした。

 

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上記は当時の演説会の様子を描いた新聞の挿絵です…雄弁を振るう弁士に熱狂する民衆の様子が窺がえます。


帝国憲法への道
熱狂!憲法創作ブーム

更に自由民権思想はこんなところにも…なんと議会を開設するための憲法を国民自らが思い思いに作り始めたのです。世はまさに憲法創作時代…こうして全国で書かれた憲法は私擬憲法と呼ばれ、その数55にも上ります。

最も革新的といわれたのが土佐の地で起草された『東洋大日本国国憲案』…これは板垣退助らとともに民権運動に没頭していた植木枝盛の手によるものです。その特徴は第72条に現れています。

「政府が人民の自由権利を侵害する場合は、日本国民は政府を転覆させ新政府を建設する事が出来る」なんと武力による革命権を保証しているのです。

更に注目すべき憲法が東京都あきる野市にありました…『日本帝国憲法(五日市憲法)』驚くはその権利意識の高さです。これまで成文化されていなかった様々な国民の権利が204条に渡りびっしりと書き込まれています。

「教育は父兄にとって免れることの出来ない責務である」…子どもの教育の権利を謳ったものです。さらに地方自治の権利も明快に示していました。

これを書いたのは五日市の小学校の教師・千葉卓三郎です。

 

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全国各地で産声を上げた私擬憲法、国民それぞれが日本の未来を憲法に託しました…しかしこの私擬憲法が日の目を見ることはありませんでした。

明治政府が10年後に議会を開設すると約束したのです。中心となったのは伊藤博文でした。…自由民権運動憲法づくりから議会開設の為の政党作りへとその目的をシフトしていきました。

専修大学 新井勝紘 教授
「全国で作られた私擬憲法は、憲法草案として実現しなかったわけですが、手が届くような所に国があった。我々が動けば国の在り方を変えられるという認識が広範に広まっていた時代でした」

国民が自ら憲法作りに熱中したこの時代、それは日本中で国家ビジョンが描かれた活気あふれる時代だったのです。

東京大学 客員教授 御厨貴
「あの時代は基礎的な教育が高かった時代だったのです…あの事は政治なんです。国民の最大の関心事は政治なんです…皆が話題にし、政談演説会などにみんな話を聞きに行くんです…それでみんな元気になる」

国際日本文化研究センター 瀧井一博 准教授
「政談演説会なんてのは今風に言えばロックコンサートですよ…民権運動の闘士・弁士というのはロックスターです。政談演説会というのは、実際そういう雰囲気なんです」

駒澤大学 村井良太 准教授
「あの時代は知が全国に散らばっていたのです…江戸時代から村々に知を受け止めて発信できる人がいたのです」


帝国憲法への道
明治政府のあせり

明治14(1881)年 政府は全国に広まった自由民権運動を抑え込むため明治23年の議会開設を約束しました。しかし肝心の憲法はまだまとまってはいません。

岩倉使節団の一員として近代国家の基盤作りに励んだ大久保、木戸はすでに他界、憲法づくりの重い責任を背負ったのは伊藤博文でした。

議会開設に必要な国家の骨組、憲法、その具体的なプランは伊藤の中でまだ固まっていませんでした。彼はドイツに向かいます…ところがドイツで思わぬ光景を目の当たりにします。ドイツ躍進の立役者、あの鉄血宰相ビスマルクが議会の猛反対にあい、思うように政治を行えないのです。

議会の権限が皇帝や宰相より弱いとされるドイツ憲法…それでも議会の発言は無視できないほど大きいものだったのです。


帝国憲法への道
リーダー伊藤博文の苦闘

思いもよらないドイツ憲法の行き詰りをみて悩む伊藤、憲法憲法を作る難しさをこう綴っています。

「ある国の憲法をそのまま翻訳するのは難しい事ではない…しかしその国の実態と共にこれを見なければ本当の政治体制を知る事はできない。憲法の良否得失を議論するは、実に寝食を忘るる心地にてそうろう」

日本に合った憲法とはどんなものなのか、ドイツではかどらない調査を切り上げた伊藤に大きな影響を与えたのがウィーン大学の法学者ローレンツ・フォン・シュタインでした。…7つの国の言語を使いこなし、世界各国の憲法に精通していたシュタイン、更に経済や教育などあらゆる研究分野に幅広く通じていました。

伊藤はシュタインの講義に熱中し、たちまち憲法制定に強い自信を持ちます。下記画像は、当時シュタインの受講生だった日本人が書き記したものです。

 

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人体の姿を借りて国家を現しています。シュタインが伊藤に伝えたのは国家運営の中での憲法の役割でした。シュタインによれば国家とは人間の体のように、それぞれの器官が互いに補い合っているもの。

頭=君主
両肩=上下院議会
胴体=政府を構成する各省
足=人民、国家を支えています。

そしてシュタインは、こうした国家というものは人間と同じように人格を持つものだと言います。…人間の場合人格は3つの要素で出来上がっています。

自我:生涯変わらぬ自我が
意思:何かをしようとする意思を持ち
行動:行動する事で生きている

国家の場合それぞれが
君主(自我):
立法(意思):
行政(行動):
そして憲法とは国家の意思を作るための立法の根本原理でした。

 

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伊藤がもっとも感銘を受けたのがシュタインが憲法に劣らず重視した行政でした…君主の権限を制限し、立法府である議会が力を持ちすぎるのを押さえ安定した国家運営を行える機関こそ行政だと強調しました。

ドイツ憲法の行き詰まりを見せつけられた伊藤にとってシュタインの言葉は説得力のあるものでした。伊藤が残したシュタインの講義の感想です。

「どんなによい憲法を作っても政治運営が上手く行かなければ意味がない…良い政治運営を求めるならば行政を固めることが必要だ」

1年半もの憲法研究を経て帰国した伊藤が憲法制定や議会開設より先に行ったのは、…

明治18(1885)年12月22 内閣の創設でした…まず行政を先に固めたのです。そして自ら初代内閣総理大臣に就任、いよいよ憲法づくりに取り掛かるのです。


ついに誕生!帝国憲法
日本初の国家ビジョン

4年後に開かれる国会、しかしこの国には議会開設の為に必要な憲法が未だにありませんでした…ヨーロッパで憲法調査を終えた伊藤博文は、急ぎ憲法づくりに取り掛かります。

明治20(1887)年夏、神奈川県の夏島にある自分の別荘にこもります…彼の回りには後に憲法4人男と呼ばれる若き秀才官僚たち…中でも司法省にいた井上毅は、伊藤に憲法草案のたたき台を作れと命じられた法律に精通した官僚です。

 

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井上の作った案を更に練り上げ、草案の仕上げがここで行われたのです。出来上がった憲法草案は地名にちなんで夏島草案と呼ばれます。…ここから憲法完成に至るまでの数々の議論から伊藤が憲法に託した執念が思い知らせれます。

憲法制定 伊藤の執念①
夏島草案には井上毅が最初につくった叩き台には無かったもので伊藤博文が加えた条文がありました。

天皇は諸大臣の輔弼を以て大政を施行す」…輔弼とは天皇の大権行使に誤りがないよう意見を上げ責任を持つ行為をいいます。

伊藤が付け足そうとした条文は、内閣が君主である天皇を補佐し、責任を負う事で行政の責任強化を狙ったものでした。

これに井上は猛然と反対します…「大臣輔弼の原則を明示し、君主(天皇)の主権を制限すれば行政が君主から分離した独立の一機関になる事を意味し、君主と行政の一体性が破壊されてしまう」…

君主、すなわち天皇を中心とし、行政の独立は極力抑えるべきとする井上。…対して伊藤は近代国家として今だ成熟していない日本には君主や立法よりもより強力な行政が必要とする立場、度重なる議論の結果、この主張は次のように形を変え、修正案に盛り込まれます。

「国務各大臣は、天皇を輔弼し、その責めに任ず」…この条文は第日本国憲法第55条として結実しました。

憲法制定 伊藤の執念②
明治21(1888)年6月 出来上がった憲法の草案について天皇の諮問機関・枢密院で最後の審議が始まりました。天皇臨席の元、議長は伊藤博文です。

憲法づくりの大詰めの作業、ここで伊藤は大一番を向えます。…それは第二章の臣民権利義務に対する審議の一幕です。臣民権利義務とは、臣民=国民の権利と義務を定めた条項です。

森有礼文部大臣から意見が出ます…「臣民の権利及び義務を憲法に書く必要はありません。臣民の分際、つまり責任だけ書けば十分と思われます」

これに対し、議長の伊藤博文は自らこう説明しました…

憲法創設の精神は、第一に君権を制限し、第二に臣民の権利を保護する事にあります。もしこれを書かなければ君主には無限の権力があり、臣民には無限の責任が生じ、君主専制国になってしまう…だから臣民がいかなる権利を持ち、いかなる義務を持つかを明記する事は憲法の骨子なのです」

人民の権利は憲法の骨子と語る伊藤博文…第二章・臣民権利義務はそのまま残される事が決まりました。

そこには、兵役や納税の義務と同時に法律の範囲内という但し書きのもと、言論、集会、結社の自由といった臣民の権利も明記されています。

明治22(1889)年2月11日 大日本帝国憲法が発布されました…日本はいよいよ新しい憲法を備えた近代国家に踏み出します。

 

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ある民権運動家はこの憲法について次のような感想を残しています…「憲法をどう自分たちのものとして使うか、それこそ人民の代表である議員にかかっている」