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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

常識逆転!あなたの知らない忠臣蔵 武士道の新事実

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BS歴史館 常識逆転!あなたの知らない忠臣蔵 武士道の新事実

今からおよそ300年前の12月14日深夜(元禄年12月14日)、赤穂浪士47士が江戸本所にあった吉良邸へと内入りました・・2時間の激闘の末、主君の仇、吉良上野介を討ち取ったのです・・いわゆる元禄赤穂事件です。

これに対し、江戸の庶民の多くは、清々しい義挙だと喝采を贈ったそうです。東京高輪・泉岳寺、ここには、その赤穂47士が祀られています。


忠臣蔵の本質である ”忠義” 実は浪士たちの間で忠義をめぐる内部対立があったのです。…忠義とは主君のためとは限らない。現代人にもわかりやすい忠義の意外なエピソード。


忠臣蔵『忠義』をめぐる対立! 堀部安兵衛VS.大石内蔵助…忠義をめぐる戦い
そもそもの事の起こりは、吉良邸討ち入り1年10ヵ月前の元禄14(1701)年3月14日、江戸城は松の廊下において、赤穂藩主・浅野内匠頭吉良上野介に突然斬りかかるという事件が起きます。殿中で刀を抜くのは許されざる行為でした。

時の将軍・徳川綱吉は激怒し、内匠頭にその日の内に切腹、そして御家取り潰しを言い渡したのです・・衝撃的な知らせが5日後に国元に伝わります。

赤穂藩・石高5万石(兵庫県赤穂市)、当時の赤穂藩は、塩田開発を奨励するなど豊かな財政を誇る中堅クラスの藩でした。…その運命を任された最高責任者こそ家老・大石内蔵助「御家取り潰し」という藩の全ての者が食い扶持を失う空前の危機、大石は家臣を集め幕府の命令を受け入れるのか抵抗するのかを話し合います。

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赤穂の隣、岡山、ここにその時の大石たちの切迫した様子をつぶさに記録した物が残っています・・岡山藩は赤穂に忍びを潜入させていたからです。・・上記画像は、その忍びからもたらされた赤穂城下の正確な地図です。

岡山大学文学部 教授 倉知克直さん
岡山藩は、何隊かの情報収集部隊・忍びを含め赤穂に派遣していますのでこれだけの正確な地図が出来たのです」

地図には、屋敷や通りに付箋が…これは、赤穂藩が取り潰しになり、周囲の藩が占領する際にどの藩がどの場所を担当するかを記したものです。城明け渡し前の緊迫感が伝わります。

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上記写真は、大石たち赤穂側の様子を報告した文書です。大石は、城明け渡しには応じず、主君への忠義を貫くため皆で死ぬつもりだと書かれています・・「大石は、一通りの恨み言をいい、腹を切って死ぬ覚悟を決めていた」と報告されています。

ところがそんな大石に亡き主君、浅野家の親戚筋から幕府には逆らうなと圧力がかかります…幕府に抵抗すれば浅野家全体に迷惑がかかると言うのです。

無き主君の恩義に報い、命をかけるのが忠義?
素直に城明け渡しに応じ、主君一族に迷惑をかけないのが忠義?
…大石は決断します。

4月19日、赤穂城明け渡し、浅野家は城も領地も取り上げられます。家臣たちは食い扶持を無くし、全国各地へと散って行かねばなりませんでした。…大石内蔵助は京都・山科へ移り住みます。大石には家老としてやるべきことが残っていました。

ちりじりになった家臣との絆を取り戻し、再び彼らの糧を得る場をつくる・・浅野家の再興です。亡き
主君・内匠頭には、弟・浅野大学がいます。幕府の旗本で兄に連座し、謹慎中でした・・大学の謹慎が解かれるのを待ち、赤穂浅野家を復活させようというのです。

大石は、将軍の信頼厚い僧侶や幕府の役人に嘆願します。吉良上野介への復讐よりも急ぐべきは御家再興、それが浅野家と家臣たちの行く末を背負った大石の責務でした。しかし、江戸には簡単に応じない物が…

江戸・赤穂藩邸にいた江戸留守居役、堀部安兵衛です…堀部は主君の仇討ちよりも御家再興を優先する大石の考え方に不満を持っていました。

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堀部は、手紙でこう大石に書いています。
「我々はあくまで亡き内匠頭様に忠義を尽くすことが本意、主君の仇、吉良を見逃し、分家の大学様を大切に思うこと、大学様にことよせ命を惜しむようである」

更に堀部は、…

「討ち入りは武の道にかなう行為であり、奉公すべきは内匠頭様ただ一人、その怨念を晴らすことが何よりの忠義である」

これに対し大石は手紙で堀部を戒めます…今、討ち入りをして騒動を起こせば御家再興は不可能になるからです。
「亡君の忠義尽くすといって御家、根も葉も打ちからしては、忠義とばかりはいえない」

…この二人の忠義の対立は、経歴や社会的地位の違いによるものだと赤穂事件を研究する谷口さんは指摘します。

早稲田大学文学学術院 准教授 谷口眞子さん
「まず大石内蔵助ですが内蔵助の家は、代々浅野家の家老を務めていた譜代の家であります…ですから何よりも大名家の存続を念頭に置いている。彼にとって忠義というのは自分が代々恩義を受けてきた浅野家なのです・・浅野家を再興することです」

一方、堀部安兵衛は赤穂生まれではなく、新潟・新発田藩の出身、江戸へ出て浪人をしていたとき赤穂藩士の養子となります。そこで藩主・浅野内匠頭の命により、赤穂江戸藩邸において重職に抜擢された人物でした。

早稲田大学文学学術院 准教授 谷口眞子さん
「自分を堀部家の養子として認めてくれた…藩士として江戸留守居といった重職を任された・・そういう意味で堀部安兵衛にとって浅野内匠頭というのは人生、たった一人の主君であるということです」

「つまり、大石、堀部、この二人の忠義といっても御家に対するものが強いのか、あるいは浅野内匠頭という一人の個人に対する忠義が強いのかというさが見て取れるのです」

堀部と大石の忠義に対する対立、それは
組織全体を尊重するのか?
大切な一人のために尽くすのか?
…という現代にも通じる命題を提示していたのです。

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武士が赤穂浪士を批判! 武士道って何?
元禄14(1701)年夏、京都・山科…赤穂を離れていた大石内蔵助は、この地から浅野家再興への思いを幕府に訴え続けていました・・ところが1年後、衝撃的な知らせが大石内蔵助のもとに届く。

内匠頭の弟・大学の謹慎は解けたのですがその身柄は、広島の浅野本家へと送られるというものでした・・親戚の家に送られた大学がもはや大名になることはない・・浅野家を再興しようとした大石の望みは潰えます。

そこで大石は討ち入りを宣言します。しかし、すでに内匠頭切腹から一年4ヶ月もの時が経っていました・・その秋、大石は江戸に向かいます。そして吉良邸を目の前にしながら4ヶ月をかけ入念に討ち入りの準備をしたのです。

九州佐賀・鍋島藩に大石の緩慢な行動を批判した書があります。「武士道というは、死ぬことと見つけたり」という言葉で武士道の本質を記したとされる、あの「葉隠」です。…葉隠は大石たちをこう非難します。

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赤穂義士たちの敵討ちは延びに延び、…喧嘩打ち返しをせぬ故、恥になりたい」(「葉隠」佐賀鍋島藩 山本常朝)…本来武士はやられたらすぐにやり返す。武士にとって命を落とすことを躊躇して恥となることが最も嫌われたことでした。

そして慎重に対応する赤穂の武士道を…「上方風の打ち上がりたる武士道」と揶揄しています。・・この上方風の打ち上がりたる武士道とは、古風な武士道からすれば、上品で軟弱、優等生の武士道だという皮肉をこめた表現です。

しかし、この非難の言葉を別の角度からとらえる研究者がいます。近世史を専門とする笠谷教授…大石内蔵助を元禄に現れた新しい武士だといいます。

国際日本文化研究センター 教授 笠谷和比古さん
「では、伝統的な古典的な武士道と大石の武士道では、どこが違うのかといいますと『計画性』『合理性』これが大石の行動、赤穂事件の大きな特徴だと考えます」

大石内蔵助の新しさ、計画性、合理性とは、具体的に…

①徹底した予算管理
赤穂藩取り潰し当時から吉良邸討ち入り直前まで記入し続けられた金銭出納帳が神奈川県の箱根神社に現存しています・・大石内蔵助は、城明け渡し前に藩の財務整理をした上で確保した691両(約7000万円)を仇討ちの実行資金として使用しました。

その使い道全てを記録していたのです・・同志たちの江戸での滞在費、食事代、武器(弓・槍・長刀)を買った代金など徹底的に討ち入りに使う予算を管理していたのです・・その費用を僅か7両、70万円ほどの赤字でまとめたうえ、赤字分を大石は自分の懐から補填したと言われています。

なぜ大石には、このような経済的センスがあったのか・・それは葉隠が指摘する上方という地域性にあったと言います。上方はその中心である大阪が天下の台所と言われるほど商業が発達した土地でした。

大石たちの故郷、赤穂の地は大阪に近く、商品性の高い良質な塩がとれたことから大きく繁栄していたのです。大石たちはこのような豊かな藩の財政を担ううち経済的センスを身に付けていったのです。

②合理性
大石たちは江戸についてから時間をかけて討ち入り準備をします…それは徹底した情報収集でした。武士でありながら商人になりすまし、吉良邸付近に店を構え、ある者は米屋に(前原伊助)、ある者は吉良邸に出入りしていた茶人に弟子入り(大高源五)し、上野介が確実にいる茶会の日を聞き出すなどの行動をとっています。

武士が商人に扮装するなど本来は恥ずべき事、しかし確実に吉良を討つため体面やプライドは二の次に置いていたのです・・大石内蔵助の討ち入り、それは新しい武士の在り方をつげていたのです。

 

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浅野内匠頭殿 御家士 敵討一件」(写し)

討ち入り新事実…吉良邸討ち入りは、みんなが見ていた

元禄15(1702)年12月14日、主君の仇を討つため赤穂47士が吉良邸に打ち入ります・・およそ2時間の戦闘の末、吉良の首を討ち取りました・・近年、この討ち入りについて吉良邸の塀の外で一部始終を目撃していた人物がおり、様々な事実を書き残している資料が発見されました。

長年行方不明になっていた資料を発見したのは中島康夫さん…赤穂事件を調べる事、50年以上の研究者です。向かったのは新潟県新発田市、あの堀部安兵衛の故郷です。

中央義士会 会長 中島康夫さん(70)
「この資料によって元禄に起きた討ち入りの全貌が明らかになった・・最高の資料です(上記写真)」

これは佐藤條右衛門という堀部安兵衛の従姉弟に当たる武士が討ち入りを手助けしたときの様子を書き留めたものです。

討ち入りのさなか佐藤が吉良邸の外で見たものとは…
討ち入りのさなか午前4時頃、佐藤は「向こうから魚カゴを持った商人らしき男が3人やってきた」と書いています。・・夜明けまで3時間あまり、市場に行く庶民たちはすでにで歩き始めていたのです。

見張り役の佐藤は、怪しそうな人物が通るたび呼び止めました…すると町人の一人がやっかいが及ぶのを恐れたのか吉良邸内の大騒ぎを「年の瀬なので、スス払いでもやっているんですかね?」と見事にとぼけたと言う。

そして、すでに吉良邸内にいるはずの浪士の一人が討ち入りに遅れてやってきた…それは堀部安兵衛の義理の父・堀部弥兵衛だった。弥兵衛はハシゴを使って吉良邸に入ろうとするが老齢の為、なかなか登れない、お尻をお付きの者に押され塀の中に何とか入ったとか…びっくりする話ですね。

その後も佐藤は討ち入りをリポート、行った先は、高輪・泉岳寺、浪士たちを一目見ようと黒山の人だかりとなっていた。すると中から現れたのは堀部安兵衛、佐藤がこれからの予定を質問すると目的を達成した安堵感からなのか笑いながら「切腹 切腹」と言ったそうです。

…静かに浪士たちだけで討ち入ったと言われていますが、実は吉良邸の回りは町人たちが普通に歩いていたりで我々が抱いていた討ち入りと違う事実が徐々に明らかになってきたのです。

やはり、映画とは違うんですね・・まあ、大変な騒ぎだったと思いますからね・・この元禄時代って思ったより、おおらかだったようですね。

 

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「THE LOYAL RONINS」英訳 齋藤修一郎

ニッポン人と忠臣蔵「武士道」は世界に!

時は明治に…日本が国際社会に出てゆく頃、忠臣蔵も世界へと紹介されます。それに貢献したのがアメリカに留学していた青年、福井藩出身・齋藤修一郎…彼が日本人の精神を世界に示すため選んだのが忠臣蔵でした。

この英訳本を読み、日本人の忠義というものに大きな感銘を受けた人物がいました・・第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトです。

日本人には関心なことが多い
私は四十七浪人を読んで
感心し娘たちに勧めました

忠義という
うるわしい精神は
もっとアメリカにも
欲しいものです

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■自分が大切にしているもののために命をかけて戦った男たち・・その日本人の忠義を賞賛したアメリカ大統領、一方、家族を捨て忠義を選んだ赤穂浪士たちを非難した東北の武士、忠義をどう考えるのか我々は一体、誰のために生きるのか?…みなさんはどう考えますか?