NHK 歴史秘話ヒストリア
いつだって負けずキライ ~葛飾北斎 横町のオヤジは世界一~
葛飾北斎の浮世絵『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』(上記画像)…絵そのものは幅40センチたらずなんですが存在感は圧倒的、一度見たら忘れられません。
この絵、海外ではGreat Wave(グレート・ウェーブ)と呼ばれ、モナリザに並び世界で最も知られた絵画とも言われています。
アメリカの雑誌『LEFE』(1998年)が過去1000年間の世界を作った重要人物100人を選びました…ナポレオンやアインシュタインなどそうそうたる顔触れの中、日本人で唯一選ばれたのが北斎(HOKUSAI)…いわば世界が最も尊敬する日本人なのです。
北斎は早くから海外で高く評価され、作品の多くが海外を渡り、北斎の選りすぐりの作品を集めた展覧会は、アメリカからの里帰り展です。
今や世界でも屈指のアーティスト北斎ですが、本人は大芸術家というより江戸の町中で飄々と、しかし頑固に絵を描き続けた人物でした。
episode1
人生の荒波から生まれた
グレート・ウェーブ
今から180年前に書かれた傑作風景画シリーズ『冨嶽三十六景』季節や場所によって異なる富士の姿を描き分けた北斎の代表作です。
中でも有名なのがグレート・ウェーブこと『神奈川沖浪裏』…まるで生き物のように立ち上がり、襲いかかる波、波間に漂う船は、押し送り船と呼ばれる快速船で江戸にカツオを届けた帰りだそうです。
富士山は彼方で壮大なドラマを悠然と見つめています。…この傑作を描いた時、北斎は72歳、それまで何度も人生の荒波をくぐり抜けてきました…どんな苦難にも負けない、挫けない、北斎奮闘の物語です。
宝暦10(1760)年、北斎はおよそ250年前、当時の葛飾郡本所に生まれました…19歳で浮世絵師・勝川春章に弟子入り、役者絵や美人画を描くものの人気はいま一つ、気がつくと30代になっていました。
そんな時、北斎は衝撃を受けます…浮世絵界に新たな個性が続けざまに現れたのです。
美人画の名手・喜多川歌麿が女性をアップでとらえる新機軸を打ち出せば、東洲斎写楽が彗星のように現れ、大胆にデフォルメした役者絵で一世を風靡しました。
このままでは浮世絵師として一流になれないと考えた北斎は、とんでもない行動に出ます…なんと徳川幕府の御用絵師、狩野派の門をたたいたのです。
狩野派は時の権力者の城や屋敷を飾る絵を描いてきた超エリート集団、一介の浮世絵師の入門など考えられない事でした…しかし何度も願いでる北斎のしつこさに入門は許されます。
その後、琳派、土佐派、など様々な流派で腕を磨きました。
北斎は長崎のオランダ人に絵を売る事もしています…そして西洋画の陰影など画法なども貪欲に自分のものにして行きます。
天保2(1831)年 北斎(72歳)…この時、実力を世に問う機会が訪れます…当時の江戸は、お伊勢参りなど旅が盛んになり、途中見る富士山の素晴らしさが評判になり、富士さんブームが来たのです。
富士の様々な姿を描けば人々は喜ぶ…あらゆる技を習得した北斎だけに描き分けられたのです…そして渾身の作『冨嶽三十六景』が誕生したのです。
大胆な形と奇抜な構図で自然をとらえる風景画は、それまでの浮世絵にはなく、大ヒットとなりました。
その一枚がグレート・ウェーブこと『神奈川沖浪裏』だったのです。
episode2
成功かと思いきや…
最強のライバル登場
冨嶽三十六景の成功は、浮世絵に風景画という新しいジャンルを確立し、北斎はその第一人者となりました…それなのにその地位を脅かす絵がすぐに現れます。
それが歌川広重の『東海道五拾三次』…その一枚『蒲原 夜之雪』深々と雪の積もる宿場町の光景です。
静寂の世界を背中を丸めて歩む旅人には、哀愁が漂っています。…広重の抒情的な作風は北斎を上回る人気を博しました。
二人は、ただ一度対面しています。
北斎は奇人として知られています…素足に草履、杖代わりに天秤棒、着物は着古してボロボロ、絵を描く事以外は無頓着、道で人にあってもろくに挨拶もしなかったといわれてます。
そして引っ越しが大好き…生涯で93回も…江戸中の長屋を渡り歩いていました。…名前も頻繁に変えました…春朗、宗理、戴斗、為一、八右衛門、雷震、時太郎、不染居、北斎…30もの名前を使いました…北斎もその一つだったのです。
家では掃除も一切せずひたすら描く、毎晩、目もくらみ腕が疲れたころ、ようやく筆を置きました…そしてそばを食べて寝る、そんな常人離れした日々を過ごしていたのです。
ある日、北斎の教えを乞おうと若い浮世絵師がやって来ました…なのに北斎の横柄な態度と家の汚さにすっかり嫌気がさした若い絵師…それが歌川広重だったのです。
広重は、この時、北斎に似た絵は絶対に描かないと誓います…これが両者の唯一の対面となったのです。
この後、広重が出したのが『東海道五拾三次』です…日本橋から京都まで東海道の宿場を描いた55枚は、冨嶽三十六景を凌駕する大ヒットとなりました。
北斎も広重に絵で応えます…またしても富士、まだ描き足りないとばかりに更に102点の富士を描き、抒情の広重とは異なり、形や構図の面白さを追求しました。
想像力の限りを尽くして描いた『冨嶽百景』この後、北斎は浮世絵版画の世界から身を引きます。…北斎は今後自ら進む道についてこう記しています。
70歳以前に描いたものは
実にとるに足りないものばかり
73歳になって、やや
鳥、獣、虫、魚の骨格や
草木の生態を理解できた
90歳でではさらに奥義を極め
100歳にしては、まさに神業の域に
達しているだろうか
110歳になれば描いた点一つ、線一つが
まるで生きているように見えるだろう
広重との対面の後、北斎もまた独自の世界を突き進んで行く事になりました…それは神のごとく描くという途方もないものだったのです。
episode3
驚異のラストスパート
晩年の北斎は分業の版画による浮世絵ではなく、自らの筆で描き上げる肉筆画に専念していました。
堂々たる肉体を持つ鷲、そのはち切れんばかりのエネルギーは、老いの涸れた境地とはかけ離れたものです。…北斎は最後まで新しい世界に挑戦し続けていたのです。
江戸から240キロ離れた信州、小布施…80半ばの北斎は、この地を訪れ傑作を残しています。
土地の繁栄を願って作り上げたばかりだった祭り屋台、そこに最後の仕上げとして天井の絵の制作を依頼されたのです。
そこに北斎が描いたのは、波、ただ波のみでした…北斎は波だけで宇宙のように深遠な世界を現して見せたのです。
当時の江戸でも北斎の名は、いよいよ高まり、「世にも稀な絵の名人」(『浮世絵類考』より)と讃えられるほどでした。
しかしそれでもなお北斎は自らに満足する事はありませんでした。
『富士越龍』死の3ヶ月前に描かれた作品です…かつて描きつくした雄大な富士山を超え、黒雲とともに昇天する一匹の龍…それは高みを目指し続けた北斎自身の姿に他なりません。
嘉永2(1849)年4月18日、浅草の長屋で北斎は世を去ります…最後の言葉です。
「もし天が我に10年、命をくれれば、天が我をあと5年生かしてくれれば、真正の画工になれたはずなんだ」(『葛飾北斎伝』より)
葛飾北斎 死去 享年90
晩年の北斎と同居していた北斎の娘、名前をお栄といいます…お栄も絵師で父の仕事を手伝っていました。…北斎の死後、悲しみにくれ、やがて行方知れずになってしまいます。
このお栄が残した作品が近年、注目を集めています。
葛飾応為(お栄)『夜桜美人図』…桜咲く夜、灯篭の灯りをたよりに歌を詠む女性です…北斎も得意だった陰影表現、闇に浮かぶ女性は妖艶そのものです。
北斎も美人画では、お栄の方が上手いとその実力を認めていたといわれます…父を支える事に徹し、自ら描くことが少なかったお栄ですが確かに北斎の才能は受け継がれていたのです。
最後の秘話
日本を飛び出した北斎
パリ19世紀後半、日本ブーム到来…明治維新後、日本では見向きもされなくなった浮世絵は、パリに大流行していた。
当時パリでは、印象派の画家たちが芸術の革新を目指していました…彼らに地上で最も独創的な画家として讃えられ、大きな影響を与えたのが北斎でした。
印象派の父・エドゥアール・マネ、北斎万画に影響を受け、江戸の光景をパリの街角に置き換えた作品を描きました。
同じく印象派の巨匠、クロード・モネは、若き日の傑作を『冨嶽三十六景』から構図を借りて作り上げています。
北斎はパリで新しい芸術運動を巻き起こしたのです。
そして100年たった今もパリで北斎は生き続けています…街の中心に長く伸びる地下道、若者たちの密かな人気スポットに北斎が姿を現します。
アクリルペンキで描かれた幅8mのグレートウェーブ、出現したのは20年前、ある若者が描き普通ならすぐに消されてしまうのにそうはなりませんでした。
以来、多くの人が使命を受け継ぐかのように塗り直しながら北斎を讃えてきました。…今、この絵を守るのはシコースさんです。
グラフィティ・アーティスト シコースさん
「消しちゃいけないんだ…ますます偉大になるからだ…これは北斎のすごさの証明なんだ…日本を飛び出ている…北斎が日本を飛び出してパリの地下道にまで来ているんだ…素晴らしいじゃないか絵はユニバーサルなんだ」
北斎が江戸で命の限りを尽くして描いた富士山と大波は、今も世界の人々の心を震わせています。