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”お犬様”騒動(生類憐みの令) 隠された真実 ~徳川綱吉は名君だった!?~

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徳川5代将軍 徳川綱吉(1646-1709)

BS歴史館
”お犬様”騒動(生類憐みの令) 隠された真実 ~徳川綱吉は名君だった!?~

教科書で習ったあの法律・・”生類憐みの令”尊いお犬様は人より大事、傷つけようものなら打ち首獄門、何十万の庶民を苦しめた天下の悪法といわれ、綱吉も犬将軍と揶揄されてきました。

しかし近年の研究で綱吉は、暗君どころか徳川歴代将軍の中でも屈指の名君だったという考え方をする研究者・歴史学者が増えてきているのです。

今から300年前の元禄時代中野駅周辺には日本史上最大の犬飼育施設(中野犬屋敷)がありました・・広さ30万坪・東京ドームが20個も入る広大な敷地に10万匹もの野良犬が雨風をしのぐ寝床と十分な餌を与えられ暮らしていたのです。

そんな時代を作ったのが ”生類憐みの令” 綱吉最大の悪政として伝わるこの法令はどんなものだったのでしょうか。

貞享2(1685)年 将軍が御成りの道筋に犬猫が出てもかまわない今後はつなぎおかなくてよい
元禄5(1692)年 子犬は人や馬に踏まれないよう小屋に入れておく事
元禄7(1694)年 犬は捨ててはならない捨て犬を見つけた者は養育する事
元禄7(1694)年 犬を傷つけたものを見たら見逃さず捕える事
元禄7(1694)年 犬を傷つけたものを見逃したら町中全員を罰する
元禄8(1695)年 捨て犬、殺犬の密告をしたものには褒美を約束する

・・・このように生類憐みの令は一つの法律ではありません、生き物を大事にする130もの法令の集まりをいいます・・綱吉が亡くなるまで25年間にわたって出されました。

実は、この法令の対象は犬だけでなく、生きもの全体にわたるもの・・魚釣り、鳥の捕獲禁止・・江戸っ子の楽しみ、どじょう、うなぎの販売禁止・・虫を捕獲し、虫の音を鑑賞用に聴くための虫の飼育禁止。

こうした法令・罰則のせいでとんでもない将軍というイメージがついた綱吉、生類憐みの令の本当の意味は何だったのでしょうか。

茨城大学 准教授 磯田道史
「綱吉ほど虚像と実像が違う・・綱吉は悪い人のように思われているけど実は凄い事をした人物で日本の歴史、日本人の習慣なんかにとっても決して悪い事をしていません」

「なんで130もの法律を出さなきゃいけなかったかというと・・最初の段階では生きもの、生命を大切にしなさいという道徳として発するんですが・・次第に役人たちが自分の有能さをアピールする為にエスカレートしてしまったのです」

「最初の主旨とは離れてもの凄く細かいシチュエーションで定めて鵜の目鷹の目で違反者を見つければ自分の手柄になるというような忠誠の競争に利用されて数々の悲惨な事例が生み出されたというのが真実だと考えます」

「25年間で130の法令が出されたというのは、『絶対にこの世の中を変えてやる』という強い意志があったのです」

作家 童門冬二
「綱吉の考えの根っこにあるのは人命尊重なのです・・ペットもそうですが最後は人の命を何よりも重んじろという事です」

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生類憐みの令の本当の目的は何だったのか・・私たちのイメージを覆す情報がドイツから入りました。それは綱吉の時代、日本を訪れたドイツ人医師、ケンぺルの記録(『廻国奇観』1712年 エンゲルベルト・ケンぺル著)

日本の様子を見聞し、綱吉とも謁見したこともあるケンぺル、彼は綱吉に対してこう褒め称えています。
「今、この国を統治している徳川綱吉は卓越した君主である・・彼のもとで全国民が完全に調和して生活している。生活習慣や芸術、道徳の点でこの国の民は、他のあらゆる国の人々を凌駕している」(『廻国奇観』より)


綱吉は卓越した君主、その根拠は…

ドイツ出身のボダルト・ベイリー教授は、生類憐みの令が出された社会背景に注目、犬に関する数々の法令は江戸の町を悩ませていた野犬への対策であったというのです。

大妻女子大学 教授 ボダルト・ベイリーさん
「犬はその時代、大変な問題になりました。庶民の本当の苦しみになったのです」

この頃、江戸に人口が集中するとともに野良犬も増え続け、子供や老人、家畜を襲う危険な存在となっていました。

こうした問題に対処するため綱吉が始めたのが動物の登録簿、犬や猫を始め牛・馬まで毛色や頭数、飼い主を記録・・その責任を明確にし、生き物を保護する事が狙いでした・・これは世界に先駆ける画期的な制度だったのです。

大妻女子大学 教授 ボダルト・ベイリーさん
「犬の登録は現在では当然だと思いますがニューヨークは19世紀からとすると日本は本当に早かったのです」

さらにベイリー教授が注目するのは、貞享4(1687)年に出された法令
「宿で人や牛馬が重病になるとまだ命があるのに捨てる者がいると聞く、そんな不届き者がいたら厳しく処罰するように」

この時代の宿場では旅人が重病にかかると処置に困り、外に捨ててしまう事が日常的にあったのです・・綱吉はこれを厳しく禁じました。

大妻女子大学 教授 ボダルト・ベイリーさん
「生類憐みの令とは、犬の令だけでなくて弱者への憐みの問題です・・綱吉は現代と同じように福祉の社会を作るのが大切と思ったのです」

生類憐みの令では、このように人の命を守る法令がいくつも出されていたのです・・まず綱吉が目を向けたのが幼い子供の命、当時の江戸では、捨て子は日常茶飯事、生活が逼迫すると生まれたばかりの赤子を殺す間引きという習慣さえありました。

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綱吉は捨て子の禁止を命じます・・更に7歳以下の子供を帳簿に記録させ妊婦までも登録、幼い命を守ろうとしました。

また綱吉は、罪人でさえ大事にしました・・当時の牢屋は不衛生で劣悪な環境、命を落とすものもいました・・綱吉は牢屋に風通しを良くする格子を作り、月5回の入浴をさせるなど衛生状態の改善を命じています。

大妻女子大学 教授 ボダルト・ベイリーさん
「今は当然と思う福祉の社会を綱吉は17世紀に、すでに大切と思っていた」

最近の研究では綱吉が将軍になって2年後に出されたこの1条こそ生類憐みの令の始まりだと言われます。
天和2(1682)年 忠孝に励み、夫婦・兄弟・親戚が仲よくし、召使いまで憐れみなさい

人間も含めた全ての生き物を憐み大切にする・・これが生類憐みの令の本来の目的だったのです。

茨城大学 准教授 磯田道史
「最初にこの法令が出たのが1682年といわれています・・綱吉は35歳で将軍になるんですが『忠孝に励み、召使いまで憐れみなさい』、これは所信表明演説だと思って間違いないです」

”病人を捨てるな子供を捨てるな” 綱吉が将軍になるまでは、普通の光景だったのです・・当時の武家は、戦国からの流れで荒々しく ”切り捨てご免” 辻斬り、浮浪者の試し斬り、罪人の試し斬りなどが普通に行われていたのです。

この時代はの試し斬りは犬ではなく人で試し斬りをしていたのです・・それが普通の時代だったのです。

茨城大学 准教授 磯田道史
「人命として扱われていません・・元録までの農村は更に悲惨、この時代までの農村ほど怖い物は無い・・たとえば作物を盗んだのを現行犯で農村の人間が見つけた場合、その場で撃ち殺すことが普通に行われていたのです・・そういった殺伐たるなかで暮らしていたのが元録までの人々だったのです」

そんな事ではいけないと綱吉が25年にわたって強い意志をもって130にものぼる生類憐みの令を出したのです・・これによって命の大切さが武士から庶民にまで浸透したのです。


世界に先駆ける福祉政策だった生類憐みの令
そこにはもう一つ綱吉の壮大な計画が隠されていた!

天和3(1683)年 将軍となって3年目、綱吉は徳川幕府の最も重要な法律、『武家諸法度』を改正・・武士の基本精神をあらわした冒頭部分。

文武弓の道、専らあい嗜むべき事
↓  ↓
文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事

へと修正・・弓や馬を使いこなす事よりも主君への忠義や親孝行、礼儀の大切さを強調します・・綱吉は武士のあり方に大きな変化を求めたのです。

そもそも武士の本分は命がけで戦う事、そのため天下太平の世になっても戦国時代を懐かしむ、かぶき者という輩が暴れまわり、白昼殺し合いもありました・・生類憐みの令は、こうした武士たちの戒めでもあったのです。

それまでの力で支配する戦士から人々に奉仕する官僚へ、そんな武士の改革を綱吉は地方から始めました・・これは綱吉が全国に調査官を派遣し、大名や代官の行政を調べた報告書。

「この大名の領地は税が重すぎて農民が苦しんでいる」
「この代官は愚かで政治が乱れている」

全国の代官の8割を更迭、代わりに江戸から信頼のおける人材を赴任させ中央のコントロールを強化させます。

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更に落ち度のあった40以上の大名を処分(改易、減封)、将軍の権威を知らしめ中央集権を推し進めたのです。

綱吉は幕府内部の人事改革にも着手します・・1代前の4代将軍・家綱は病弱だったこともあり、大老や老中など代々重役を世襲しているものが取り仕切っていました・・将軍は彼らの政策を承認するだけというのが実態でした。

しかし5代将軍・綱吉は自ら主体的に政治を行うために家柄にはこだわらず能力に秀でた者を側近・側用人としてとりたてます。

側用人が間にいる事にとって老中たちが直接将軍に意見できなくなり、将軍の意志は側用人から老中たちに伝えられ、実行に移される・・この側用人制度によって綱吉はトップダウンの政治を実現します。

金沢大学教育学部 教授 村井淳志
「綱吉は30年間の病弱な前将軍・家綱と世襲の老中という図式をひっくり返して、老中には黙らせて自分の意見を押し通して優良な官僚を次々と抜擢する・・前将軍の30年間とガラっと変えてしまったのです」

大妻女子大学 教授 ボダルト・ベイリーさん
「綱吉から官僚制度が進んだんですから、その官僚制度の高い発展によって日本は他のアジアの国と違い近代化が早かった・・綱吉は15代の将軍の中で一番よい将軍だと考えています」


■生類憐みの令によって人命尊重と武士の意識改革を進めた綱吉、安心して暮らせる社会の中で都市の人口は膨らみ経済も活性化、華やかで洗練された元禄文化が花開いて行ったのです。

■綱吉は、暗君どころか大変な名君だったという考えは間違ってないかもしれませんね・・大変な社会改革を実行して日本人の文化を押し上げた功労者という見方も出来るんじゃないでしょうか。