NHK BS歴史館
源義経 悲劇のヒーローはこうして生まれた
時は、平安時代末期、栄華を極めた平家一門と一族復興を掲げた源氏が戦いを繰り広げた…源平争乱の時代です。…その未曾有の乱世に彗星のごとく現れ、無数の伝説を残して消えていった源義経。
時は、さに貴族社会から武士の支配する武家政権へ移らんとする時、突如歴史の大転換に表舞台に登場した稀代の英雄こそ源義経でした。
義経といえば、ご存知・牛若丸の物語…役者顔負けの美貌と天才的な剣術の腕前、盟友弁慶との五条大橋での一騎打ちは誰もが知る名場面です。
ところが牛若丸の物語は、後世の人々が創造した作り話、…その内容も時代とともに微妙に変化していったのです。
源平合戦のヒーロー、源義経…実は、義経が歴史の表舞台に登場するのは平家との戦いに彗星のように現れ、その死を迎えるまでの僅か数年、それ以前の半生を描いた資料は殆んど無く、伝説として語り継がれたものなのです。
源義経
第1の伝説 牛若丸の物語
牛若丸は、京都・鞍馬寺で幼い日を送ったとされています…牛若丸は、天狗たちに剣術の猛特訓を受け、超人的な技を見に付けていったと伝えられています。
そして牛若丸伝説最大の名場面となるのが五条大橋での弁慶との一騎打ちです。…この戦いが二人に固い主従の絆を結ばせたのは有名な話です。…華奢な美少年が荒くれ者を軽やかに打ち負かす。…この話は、江戸時代の庶民の間に広く浸透して行きました。
そもそも牛若丸の話が初めて書かれたのは室町時代、…『義経記』という伝奇物語の中で弁慶との出会いも語られています。…ところが『義経記』と私たちが知っている話は、だいぶ違うのです。
例えば、牛若丸と弁慶が出あった場所は、五条大橋ではなく五条の天神となっています。…ここで完敗した弁慶はリベンジを挑み、次は清水寺、大観衆の前で戦い、またも牛若丸が圧勝したと書かれているのです。
なぜ戦いの舞台は、五条大橋ではなかったのか…実は五条大橋が造られたのは豊臣秀吉の時代になってから牛若丸の平安末期には橋自体が無かったのです。
歴史家・作家 加来耕三
「そもそも義経という人は、6年間しか歴史の舞台に登場してこないのです。それ以前は、史料が無い、何していたか分からないのです」
「義経を美少年にしたのは室町時代に書かれた『義経記』(牛若丸)からなのです…しかし、その前の平家物語では、猿のような顔、歯が出ていて、小男で更にぶ男だったと書かれています…弁慶もいたかどうか怪しいですね」
作家 小林恭二
「義経の伝説を作るためには弁慶は必要…弱い義経を助けてくれる人、絶対にボディーガードは必要です…普通の武士よりも坊さんの方が物語になりますよ」
源義経
第2の伝説 鵯越の逆落とし
瞬く間に平家を滅ぼした超人的な武勇伝、中でも鵯越の逆落としは、今でも物議をかもしている伝説の奇襲攻撃です。
そうした武勇伝を世に広げたのは、同時代に作られた軍記物『平家物語』…平家物語に書きつづられた合戦の経緯を確認しましょう。
平清盛が築き権力を欲しいままにしていた平家一門…これに対し、打倒平家を掲げ、義経の兄・頼朝が兵を挙げます。…その頼朝の元に反平家勢力が終結、源平争乱の幕は切って落とされます。
そして平家物語が義経の名を一躍稀代の英雄に高めたのが、世にいう一の谷の合戦です…現在の神戸市須磨に位置した平家軍の拠点のひとつ、一の谷…瀬戸内海に面し、後ろに六甲山系の断崖絶壁を背負う一の谷はいわば天然の要塞でした。
その平家軍10万を、源氏軍は東から総大将・源範頼の軍勢5万6000が攻め込み、義経率いる2万の別動隊は山側を迂回し、西側から挟み撃ちをするという戦略をとりました。…ところがここで義経は、思わぬ行動に打って出ます。
なんと僅か70騎という手勢でもって断崖絶壁からの奇襲作戦に出たのです…しかし急峻な一の谷の崖を前に家来は進言します…「鹿は通る事は出来ても馬は下りられません、作戦を断念いたしましょう」…その言葉に対して義経は、「鹿が通れるのであれば馬でも行ける、我を手本とせよ」…でした。
そして前代未聞の奇襲攻撃は決行されました…平氏軍は背後から襲ってきた義経軍に慌てふためき逃走、完敗を喫します。この戦いを皮切りに義経は、その後、僅か1年余りで平氏を滅亡へと追いやります。
その武勇伝は、平家物語によって広く語り継がれる事になるのです。…義経は平家殲滅の立役者として歌われたのです。…しかし、この鵯越の逆落としについて古来、多くの疑問が投げかけられてきました。
疑問① 馬で駆け下りる事は可能か?
実際には十分可能との事、通常の狩などでも断崖絶壁を馬で駆け下りる事は、行われていたようです。
疑問② 義経の奇襲は勝利の決定打?
平家物語を覆す史料が存在するのです。…同時代に生きた九条兼実の日記『玉葉』には、一の谷の合戦の翌日にもたらされた源氏側からの戦況報告が記されています。
「まず義経が一の谷を攻め落とし、源範頼の軍勢が福原を攻めた…その山側から攻め落としたのは多田行綱の軍である」(『玉葉』より)
平家物語の中では、源氏軍に勝利をもたらしたのは、一の谷に二手に分かれて攻めよせた総大将・源範頼と義経の軍勢にあったと記されています。
ところが『玉葉』には、範頼軍が攻めたのは、一の谷から東に10キロの位置にあった平家最大の拠点、福原であったと記されているのです…更にその福原を山側から攻めよせたのは義経ではなく多田行綱という武将の軍勢でした。
つまり源氏軍の勝利を決定づけたのは、義経による一の谷の攻撃ではなく、この福原攻めだったのです。…『玉葉』が示した新たな合戦の事実なのです。
ではなぜ平家物語では、義経の奇襲攻撃だけがクローズアップされているのか…???
俳優 石坂浩二
「鵯越の逆落としを考えると実際、70騎でそんな危険なことする価値が戦略的にあったのか、はなはだ疑問です…奇襲に成功したって70騎じゃ何も出来ませんよ…あれは、義経がいかに大胆で勇気があったかを平家物語は書きたかったんじゃないかなと思いますね」
歴史家・作家 加来耕三
「義経という人は、武士の教育を受けていません。…やあやあ我こそはと堂々と名を名乗って馬にまたがって弓で決するという教育をうけていないのです。ようするに不意打ちでしょ…不意打ちは当時の武士のルールには無いのです」
「義経の戦い方が問題なのです。一の谷の合戦では奇襲、屋島も台風の中をわざわざ漕ぎだしてくる…最後の壇の浦も水夫を射つという禁じ手を使った…平家や正当な源氏から見たらあれは何だ…と言うわけです…義経は、強い勝った人だけど卑怯な人でもあった」
俳優 石坂浩二
「平家は、義経を英雄にしていますよ…あんな強い奴がいたらどんなに頑張っても勝てないとしたかったのだと思いますね」
源義経
第3の伝説 判官びいき
義経の名を後世に語り継いだ最大の伝説、それが後に「判官びいき」という言葉を生んだ悲劇のヒーロー物語です。
この伝説で描かれるのは、冷酷な兄・頼朝によって命を奪われる可愛そうな弟・義経の物語、しかしその悲劇は、後世に作られたものとの疑いがあるのです。
この兄弟の確執を初めて記したのが『吾妻鏡』…頼朝と義経の死から100年後、鎌倉幕府の公式歴史書として編纂されたものです。…まずは、そこに綴られた流れを見ていきましょう。
一の谷の合戦の直後、義経はその功績を讃えられ、元歴元(1184)年8月6日、後白河法皇から京の警護に当たる検非違使という役職に任命されます。
しかし、これが頼朝の逆鱗に触れます…頼朝は源氏側の武士たちに朝廷からの官職は、全て頼朝の許可を受けたものに限ると伝えていました。ところが義経は、頼朝には無断で法皇からの任官を受けていたのです。
義経はその後も京都で後白河法皇の寵愛を受け、検非違使としての任務をまっとうして行きます。…頼朝には、義経は法皇に利用され、いずれ源氏の対抗勢力になるのではないかという疑いが芽生えてゆくのです。
文治元(1185)年4月21日、さらに義経が平家滅亡の功績を独占しようとしているという密告が頼朝の重臣、梶原景時によってもたらされます。…義経への猜疑心は決定的なものとなっていったのです。
文治元(1185)年5月某日、頼朝が激怒していると知らなかった義経は、兄の誤解を解こうと鎌倉へ向かいます…しかし謁見が許されることはなく、それどころか義経は、その命を狙われる憂き目にあうのです。
無実の罪を着せられた弟とその存在を疎んじた冷酷な兄、このイメージを決定づけた文書が鎌倉の満福寺に残されています。…『腰越状』義経が兄・頼朝に宛てて記したとされる手紙です。
「私は兄上に代わり朝敵平氏を倒し、亡き父上の恥辱を晴らしたのです。ところがその恩賞にあずかれぬばかりか私を落としめようとする讒言、偽りのことばによって兄上の怒りをかい、悲しみの涙をながしています。義経には決して野心などありません」(『腰越状より)
切々と許しを乞い願う文面に続くのは兄・頼朝への思い…「兄上にお会いできないとあれば、兄弟の間柄も、むなしいものでしかありません、兄上との関係は、もう終わりなのでしょうか」(『腰越状より)
腰越状は、『吾妻鏡』にも登場し、後に”判官びいき”と呼ばれる悲劇のヒーロー伝説として語り継がれてゆきます。
ところがこの兄弟の確執は、法皇との関係が原因ではないと京都大学の元木教授はいいます。
京都大学大学院教授 元木泰男さん
「義経が検非違使になったと、後白河法皇と結びついてけしからんと頼朝が怒ったのなら、なぜ義経を都に置いておくのかです。…法皇と接近させたくなければ、都を追い払う、前線へ送り込む、鎌倉で謹慎させるのが普通です」
「しかし、そのまま検非違使として法皇との取り継ぎ役をさせている…つまり、法皇と接近した事を怒っていないことは明らかです。…『吾妻鏡』という鎌倉幕府の公式歴史書に公式見解として書いてあるから皆信じてきたのです」
吾妻鏡に書かれた冷酷な兄に虐げられた無実の弟というイメージ…しかし元木教授は、確執の原因は義経の側にも十分存在したというのです。
壇の浦の合戦後も京都にいた義経は、平家の残党と結びつくような動きをします。…なんと平家一門との姻戚関係を結んでしまうのです。(京都の公家・平時忠の娘と結婚)…こうした義経の行動が頼朝に命を狙われた原因だったといいます。
京都大学大学院教授 元木泰男さん
「なにか義経が平家の残党を組織し、独自の勢力を作るのではないかという恐れを頼朝に抱かせたのではないかと思います。ところが鎌倉幕府の公式文書である『吾妻鏡』では、義経はゼンゼン悪くない、義経は一生懸命にやってるのですが兄・頼朝はなぜか理不尽に義経につらく当たる」
「挙句の果てには、梶原景時の讒言をまに受けて義経を滅ぼしてしまう…つまり、吾妻鏡の発想は、源氏が早く滅びてしまうのは、頼朝の家族関係の失敗が大きいのだといいたいのです。それでは北条氏が天下をとるのもやむを得ないといっているのです」
北条氏とは、頼朝の死後、鎌倉幕府の実権を握った一族…この『吾妻鏡』を編纂したのも北条氏でした…北条氏が意図的に冷酷な兄・頼朝と悲劇の弟・義経の物語を仕立てたのではないか…ここにも悲劇のヒーロー伝説誕生の疑惑が浮かび上がってくるのです。
歴史家・作家 加来耕三
「義経が歴史に登場して数年の間に残された肉筆はこの『腰越状』しかないのです…果たして本物か…後世の人の作りものか…はなはだ疑問です」
■こうして見てゆくと『平家物語』『義経記』『吾妻鏡』『腰越状』と後世の、その時代の権力者に都合よく書かれたものです。しかし、こんな事は当たり前…勝者が歴史作るって言葉もあります…真実を解き明かすのはまだまだ研究が必要そうですね。