旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

NHK コズミックフロント ガリレオから始まる驚異の大宇宙

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NHK コズミックフロント ガリレオから始まる驚異の大宇宙

イタリアの『パドヴァ』こここそ天文学が始まった場所です・・400年前ガリレオ・ガリレイが人類で初めて望遠鏡を星々に向けました。

天文学の父”とも呼ばれるガリレオ・ガリレイが自らの手で磨き上げたレンズを木の筒に取り付けた望遠鏡を初めて夜空に向けたとき・・それが宇宙という新たなフロンティアの存在を人類が知った瞬間でした。

ガリレオは、「回っているのは太陽ではなく地球だ」と地動説を主張しました・・そのためカトリック教会により宗教裁判にかけられ異端者と断罪され終身刑を受けました。
・・その時、「それでも地球は回っている」 とつぶやいたとされています。

1564年 イタリアの『ピサ』でガリレの父親は貧しい音楽家で彼は7人兄弟の長男として生まれます。・・若い時から観察眼に優れていたガリレオは、生涯に様々な発見をします。

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最も有名な発見がピサの斜塔で実験したと言われる ”自由落下の法則” です・・重さの違う2つの石をピサの斜塔から落とし同時に落ちる事を証明しました。・・2000年もの間、信じられてきた「重い物の方が早く落ちる」というアリストテレスの説を覆したのです。

そしてもう一つが今回の記事のテーマである ”地動説” です。・・古来、人々は天動説を信じていました「宇宙に中心に地球がありその周りを太陽や星が回っている」という考えです。

しかし天動説を覆す考えを発表したのがガリレオでした。地動説つまり 「地球は宇宙の中心ではなく太陽の周りを回っている」 事を明らかにしたのです。

ベネチアから西へ40キロの『パドヴァ』は1405年、ベネチア共和国に併合されるまで長い間、独立した都市国家でした。1592年、独立の気風が根付いたこの街に28歳のガリレオがやってきます・・その後、46歳までの18年間、パドヴァ大学で数学教授を努めました。

パドヴァ大学は、まだパドヴァ都市国家だった時代に若者たちが国にかけあい生まれた大学です・・自治と自由の気風が溢れ、これを求めてヨーロッパ中から学生が集まりました・・ガリレオが着任する100年前にはポーランド出身のコペルニクスもここで学びました。

大学の建物はコペルニクスガリレオがいた当時のままです。・・600人の大教室もガリレオが授業をすると1000人以上が集まり立ち見をする学生が大勢いたといいます。

ガリレオは、ここパドヴァにいたからこそ自由に過ごす事が出来たのです・・当時、ベネチア共和国は古い権威、中でもカトリック教会から距離を置いていました・・そのおかげで自由が守られていたのです・・自由に研究が出来たパドヴァでの18年間こそガリレオにとって最も実り多い時期だったのです。

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1609年 ガリレオは、自作の倍率20倍の望遠鏡で天体観測をスタートさせたのです・・上の写真アパートの裏庭で・・こここそが400年前、人類にとっての宇宙探検の最前線、コズミックフロントだったのです・・近代天文学発祥の地なのです。

1610年 ガリレオは46歳の時パドヴァからイタリア中部の町『フィレンツェ』に移り住みました・・フィレンツェ国立中央図書館にはガリレオの天体観測に関する多くの資料が集められています。

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上記写真は、400年前にガリレオ自ら記した「星界の報告」(1610年出版)の原稿、全て本人の直筆です・・この原稿でガリレオが何を見て地動説を確信していったのかの経過も読みとれます。

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上記写真はガリレオが観測した月のスケッチです・・ガリレオが最初に望遠鏡を向けたのは月でした。月を見たガリレオは起伏がありくぼみや丘だらけの月面を観て 「驚かずにはいられなかった」 と書いています。

それまでは天上界は特別な世界で全ての天体が滑らかな球体だと信じられていたからです。・・しかしガリレオは、「月には山や谷が縦横に走り地球となんら変わりは無い」 と書いています。

続いて望遠鏡を向けたのは木星です・・ガリレオは肉眼では見えなかった木星の周りに見えた4つの小さな星です・・4つの星は毎晩、位置を変えます3つや2つになる事も 「見えなくなった星は木星の後ろに隠れているのではないか」 と考えたガリレオは、この4つの星を木星の周りを回る衛星だと結論付けました。

そしてこう書いています 「木星は地球と同じ月を持っている」、「そして太陽の周りを大きく回っている」・・実はこれこそ人々が地動説を支持するキッカケとなる大発見だったのです。

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上記写真は、1543年「天体の回転について」ニコラウス・コペルニクス著・・ガリレオ木星の衛星を発見する70年前にポーランドコペルニクスが出版したものです。

コペルニクスは、火星や木星などの動きから地球は太陽を中心に回っているという地動説を発表していました・・しかしコペルニクスの地動説では月のような衛星を持っているのは地球だけとされました。

このことが 「なぜ地球だけに特例を認めるのか!ご都合主義だ!」 と地動説を批判する材料となっていました。が・・地球だけで無く木星にも月のような衛星があるというこのガリレオの発見は、この批判を打ち消すものでした。

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(上記写真は、ガリレオの金星スケッチ)
次にガリレオが望遠鏡を向けたのは宵の明星『金星』でした・・数か月にわたっての観察の結果、肉眼では単なる点にしか見えない金星も望遠鏡で見ると月と同じように満ち欠けをしており、更に満ちるにつれ小さくなって行く事もわかりました。

「これは金星が太陽の周りを回っているためだ」 とガリレオは考えたのです・・「金星は地球より内側の軌道を回っているから満ち欠けをしながら大きさを変えるに違いない」 とガリレオは地動説への確信をいっそう強くしたのです。

望遠鏡で木星や金星を観測する事でガリレオは太陽系の構造を読み説いたのです。

その後、400年に渡って天体望遠鏡は改良を重ねられ人類のコズミックフロントをどんどん押し広げます。
1650年代 望遠鏡は進化の第一段階としてとても長くなりました。(5m以上、倍率は50倍~100倍・・長さ46mなんていう望遠鏡も登場しました)・・当時の最大の問題は画像がぼやけてしまう事でした。原因はレンズです・・レンズは光を屈折させるのです。

1668年 イギリスのケンブリッジでこの問題を解決したのが知の巨人、アイザック・ニュートンでした・・ニュートンは光の性質に注目しました。白い光をガラスのプリズムに通すと光は屈折し7つの色に分かれます・・これがぼやけの原因、分散です。

そこでニュートンはレンズではなく凹面鏡を使おうと考えます・・鏡なら光は分散しないのです・・そして登場したのが ”反射望遠鏡” です。

1781年 イギリスのバースでより遠くの宇宙を観る為に大きな反射望遠鏡を作ったのがウィリアム・ハーシェルです。・・そしてハーシェル天王星を発見するのです・・太陽から天王星までの距離は30億キロ、それまで最も遠いとされていた惑星、木星の2倍の距離です・・つまり太陽系の大きさが一夜にして2倍になったって事です。

その後、ハーシェルは宇宙を更に押し広げます。銀河系の存在を発見したのです・・キッカケは天の川の観測です・・ハーシエルは天の川の中に輝く星を一つ一つ数えその分布を調べました。

そして天の川が単に星の多い部分ではない事に気づきます・・天の川は太陽を含む巨大な円盤状の星の集団だと理解したのです。

20世紀初め アメリカのカリフォルニア州の山の上に直径2.5mの鏡を持つ当時としては世界最大の反射望遠鏡が設置されました。

このウィルソン山天文台に研究員としてやってきたのがエドウィン・ハッブルです・・ハッブルが特に詳しく観測したのがアンドロメダ大星雲です。

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アンドロメダ大星雲は、銀河系の中にあるのか、外にあるのか、それを知るためハッブルはこの星雲までの距離を計ろうとします・・距離を計るには明るさの基準となる恒星を見つける必要があります。

ちょうどその頃、特殊なタイプの恒星が発見されていました・・セファイドです。・・セファイドは一定の周期で明るさが変化する星でその周期がわかれば本来の明るさを計る事が出来るのです。

アンドロメダ大星雲までの距離を計るには大星雲の中にセファイドを見つければ良いのです・・ハッブルは、夜は望遠鏡で空をくまなく調べ、昼は写真を分析して明るさが変化している恒星が無いか探しました。

そしてついに発見します・・ハッブルはセファイドを元にアンドロメダ大星雲までの距離を測定しました・・結果は驚くべきものでアンドロメダ大星雲までの距離は80万光年、銀河系の幅の8倍もの距離があったんです。

つまりアンドロメダ大星雲は、銀河系の外の別の銀河だったんです・・その後ハッブルは銀河系の外の数多くの銀河を観測します・・そして宇宙が膨張している事を発見したのです。

1990年 ガリレオの時代から400年、スペースシャトルにより天体望遠鏡が宇宙空間に打ち上げられました・・ハッブルの名前をかえした宇宙望遠鏡です。

宇宙望遠鏡科学研究所 マット・マウンテン所長
ハッブル宇宙望遠鏡は、次々と宇宙の新しい姿を見せてくれています・・その衝撃はガリレオが望遠鏡を空に向けた時に匹敵します」

遠い宇宙の姿を鮮明にとらえるハッブル宇宙望遠鏡、その1枚の画像が私達に大きな謎を問いかけています・・巨大な質量をもつ見えない物質が 「重力レンズ」 という現象を引き起こして背後の銀河からくる光が歪められていたのです・・この見えない物質が 「ダークマター」 です。

ダークマターは宇宙に充満していてその総量は酸素や水素などの普通の物質の5倍以上だと言うのです・・大量にあるにもかかわらずその正体はまったくの謎なんです。

ダークマターを探る研究が世界中で進んでいます・・そのトップランナーの一人、村山さんは、理論物理学を駆使してダークマター候補となる素粒子を導き出しています。

東京大学 数物連携宇宙研究機構 村山斉 機構長
「今の考え方は、暗黒物質ダークマター)というのは、小さい粒粒で素粒子だと思われています。それが銀河の中に沢山あるので実は、私達の身体をその素粒子が毎秒、何百億個も突き抜けている・・それでもわからないような小さな、お化けのような小さな粒粒だと思われています」

「銀河とか星が出来たメカニズムになっているわけです・・どうして私達がこの宇宙に存在するんだろうかという疑問に答えてくれると言う事を期待しています」

ダークマターとは何か?・・これこそ現在の宇宙研究の最前線、コズミックフロントです。

ガリレオ博物館 パオロ・ガルッツィ館長
ガリレオは、非常に基本的な事を教えてくれる人です・・科学だけでなく科学以外の事についてもです。・・それは人には考える自由があるということです。・・だれも証拠も無く考えを人に押し付けてはいけません。」

「かつては権威を振り回し人に沈黙を強いる時代がありました・・しかしガリレオは、誰にも考える自由とそれを表現する事の出来る自由があると教えてくれました。・・ですからガリレオは過去の人では無く今も生きている私達の重要なシンボルでもあるわけなのです」

ガリレオが生きた時代、地動説への気運は熟していました・・その中で考える自由、そして表現する自由を貫いた人こそガリレオ・ガリレイだったのです。

ガリレオが地動説を説いた当時、カトリック教会は天動説を絶対の教義としていました・・著書の中で度々地動説を主張したガリレオは、宗教裁判にかけられ異端者として終身刑を言い渡されました。

1633年 69歳になったガリレオは、フィレンツェ郊外のアルチェトリにある一件の家に幽閉されます・・高齢のガリレオは刑務所に入る事を免じられここに軟禁されました・・晩年の8年間をこの家で過ごします。

望遠鏡による観測で地動説の証拠を発見したガリレオ、その晩年は名誉と自由を奪われたわけです・・しかしガリレオは、実験器具や本に囲まれ最後までこの家で研究を続けたのです・・そして時より、夜になるとバルコニーに出て天体観測を行ったのでした。

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最後まで考える自由、そして表現する自由を貫こうとしたガリレオ・・ここで一冊の本を残しています。(上記写真)

最後の著作となった「新科学対話」(1638年)・・生涯をかけて見出した様々な法則を書き残しています・・その中の一節です。

重要なのは、広大な科学への道を
開くことであり、私のした事は
ただその端緒に過ぎない

やがて私より優れた新鋭たちが次々に
現れ この道を通ってさらに奥深くまで
真理を探究していくだろう

1642年 ガリレオ・ガリレイ死去 (享年77)

  

 

 

 

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