旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

会津若松 鶴ヶ城

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会津藩とともに歩んだ会津若松

会津と言ったら白虎隊、鶴ヶ崎城です。会津藩の精神が息づいた地域なんです。

地元の学校では保科正之の精神を見直そうと『あいづっこ宣言』を唱和しています。
あいづっこ宣言
1.人をいたわります
2.ありがとう、ごめんなさいを言います
3.がまんをします
4.卑怯なふるまいをしません
5.会津を誇り、年上を敬います
6.夢にむかってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです。

この宣言は、会津藩初代藩主、保科正之の教えに基づいて代々会津藩主が引き継いでいった『会津藩家訓十五箇条』を元に作られたのです。

保科正之徳川幕府の基礎を築いた人物と言われています。

作家 中村彰彦
「江戸時代に副将軍格という言葉が出てきますが実際に副将軍格の立場で活躍したのは保科正之だけです。私がいろいろ日本史を勉強してきて最も尊敬できる日本人だと思っています」

漫画家 黒鉄ヒロシ
「世界史的に見てもこんなに瑕疵のない完璧に近い人間はいないと思います…徳川というより、保科正之がいなかったら日本人の体質が変わっていたかもしれないと思いますね」

静岡文化芸術大学 磯田道史 准教授
「この人がいたから徳川の時代が長かったと思います。もし保科正之がいなかったら徳川は4代ぐらいでかなり危なかったとさえ言われています」

保科正之については「会津藩主・保科正之 ~知られざる名君 ”安心の世” を創る~ - 旅cafe」にて確認ください。

…そんな保科正之の精神が根付いた会津若松を語ります。

 

戊辰戦争最大の激戦地 鶴ヶ城

慶応4年(1868)春、幕府軍鳥羽伏見の戦いで敗れて瓦解した。江戸城無血開城を経て戦場は東北に移る。長岡での激戦、白河の攻防、日光口での戦い...。会津藩をはじめ奥羽越列藩同盟軍は各地で戦いつづけるが、薩長軍はついに国境を破り会津若松に突入、一カ月に及ぶ篭城戦がはじまる。

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2013年 NHK大河ドラマ「八重の桜」では鶴ヶ城に立て籠もった綾瀬はるか扮する八重が7連発スペンサー銃を背にし、銃弾100発を撃ちまくって幕軍将校を倒しまくってました。…しかし結局、籠城1ヵ月にして鶴ヶ城は落ちるのです。

徳川家への忠義を全うするために、とことんまで戦いきった会津魂に敬意を払いたいと思います。

そんな鶴ヶ城をご案内いたします。
赤枠天守閣」「青枠:茶室麟閣」「ピンク枠:荒城の月碑」「黄枠:北出丸」

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天守
1590年(天正8年)豊臣秀吉から会津の地を与えられ蒲生氏郷天守閣を築きました。

戊辰戦争では約一ケ月の激しい攻防戦に耐えましたが、ボロボロに成ってしまいその後明治政府により取り壊されました。昭和40年に再建、平成23(2011)年には天守閣の屋根を幕末当時の赤瓦に甦らせ現在に至っています。

歴史に翻弄された城、鶴ヶ城は国指定史跡です。天守閣の内部は現在一層から四層まで階層ごとに郷土博物館となっており会津の歴史に触れることができます。
一層は展示資料から鶴ヶ城の歴代藩主とお城の変遷。
二層は江戸時代の会津藩を紹介、仮装して城主の写真も撮れます。
三層は幕末、会津藩と白虎隊を錦絵で紹介しています。
四層は会津の季節ごとの城下の風物詩を紹介。
五層は藩主の気持ちになって眺める事ができる展望フロア。

360度会津市街を展望でき白虎隊の自刃の地飯盛山も小さくですが見る事が出来ます。

赤瓦のお城はここだけ。改装前は黒瓦と赤い高欄でした。そして、ここは銀シャチ。瞳は2カラットのダイヤモンド。大陽を反射して遠くからでもキラリン✨と輝きます!

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改装の前後です。瓦の色にご注目!

千家ゆかりのお茶室「麟閣」
天正19年(1591)千利休豊臣秀吉の怒りを買い死を命じられました。秀吉の怒りが千家一族に及び利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の会津城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵を会津にかくまい、千家の再興を願いでたのです。この恩義に報い少庵が建てたのがこの「麟閣」と伝えられます。その結果、少庵は許され、京都へ帰り千家を再興することができたのです。

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北出丸
北出丸の堀沿いに進むと敵を迎え撃つための大腰掛けが今も残っています。この付近は堀向いの伏兵郭からも攻撃でき、万一敵が北出丸まで侵入しても四方から攻撃できることから「みなごろし丸」の別名もあります。戊辰戦争では新政府軍が北出丸追手門付近まで押し寄せましたが、これより先へはとうとう攻め入ることができませんでした。

北出丸から望む壕と対岸の石垣深く広い堀に囲まれ堅固な石垣で築かれた濠は外敵から城を守る大切な役割を担っていました。現在では石垣の上に植えられた桜の木があり、春には堀の水にも桜が映り、見事な景観をつくります。

北出丸から本丸へと通じる城への玄関口、椿坂…この坂を制するものが城を制すると言われる程、重要な坂でした。

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大腰掛け 石垣 椿坂

荒城の月碑(鶴ヶ城本丸の東南隅)
明治31年に28歳の土井晩翠東京音楽学校の求めに応じて「荒城の月」を作詞した。その際、第二高等学校在学中に訪ねた会津若松城を詩材とし、仙台青葉城でも稿を練ったという。

この詩碑は昭和22年晩翠夫妻出席の元に除幕され、作詞の根拠が地元会津若松でも知られるようになった。なお、「荒城の月碑」は、鶴ヶ城青葉城の他、作曲者滝廉太郎の故郷大分県竹田城址の三ヶ所にある。

荒城の月 作詞 土井晩翠 作曲 滝廉太郎
春高楼の花の宴
めぐる盃影さして
千代の松が枝わけ出でし
 むかしの光いまいずこ

秋陣営の霜の色
 鳴き行く雁の数見せて
植うるつるぎに照りそひし
 むかしの光今いづこ

いま荒城のよはの月
変らぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら
松に歌ふはただあらし

天上影は変らねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなほ
 あゝ荒城の夜半の月

 

拝観料
鶴ヶ城:410円
麟閣:210円
鶴ヶ城・麟閣共通:520円

駐車場:有り(有料)

 

松平家の歴代藩主が眠る、山腹の広大な史跡
松平家廟所

松平家廟所とは… 
松平家廟所は市内東山町院内の山中に広がる会津松平家のお墓です。

鶴ヶ城から東へ2キロに位置する墓所。藩祖・保科正之の嫡子正頼が亡くなった明暦3年(1657)にはじまり、二代目正経と歴代藩主の子どもや婦人が山腹に仏式で葬られ、三代目正容から九代目容保までの藩主は山頂に神式で葬られています。

東西三百間、南北百五十間の広大な墓域は大名墓所でも屈指の規模です。なお、初代正之の墓は猪苗代町の土津神社にあります。

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駐車場:無し

 

白虎隊自刃の地

飯盛山の中腹のこの場所で火に包まれた城下を望みながら少年たちは若い命を散らしました。白虎隊士20名が自刃した地です。

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案内板によると…慶応四年(1868)8月23日(新暦10月8日)年齢が16歳~17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から 十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。

炎上する城下を前に玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。敵陣突入を提案する者もいれば鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張するものもいた。しかし、最終的には「誤って敵に捕まえられ屈辱を受け入れるような事があれば、主君に対して 大変申し訳なく、祖先に対しても申し訳ない。この場は潔く自刃し、武士の本分を明らかにするべき」 との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。

後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。なお、鶴ヶ城開場はその一カ月後であった。 と記されてあります。

拝観料:無し
駐車場:有り(無料)

 

白虎隊十九士の墓
白虎隊十九士の墓は鶴ヶ城の北東 飯盛山の中腹、自刃の地からほど近い処にあります。
明治元年(1868)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓と会津藩少年武士の慰霊碑と共に葬られています。
当初は見せしめのため隊士の埋葬が許されず放置、地元の人が密かに妙国寺に埋葬していたのを 現在のこのような形にしたのは明治23年だそうです。
19基のお墓は小さく16~17歳の少年たちを想像させるものでした。墓前には線香と生花が絶えることがないとの事です。

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會津藩校 日新館

日新館は、会津藩の藩校。白虎隊をはじめ、戊辰戦争やその後に活躍する人材を数多く輩出した。

実際の藩校は戊辰戦争で焼失したものの藩校に関する図面などの資料が残っていたため総工費34億円を費やし、1987年(昭和62年)3月に會津藩校日新館として会津若松市河東町(開館当時は河沼郡河東町)に完全復元、開館した。

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この施設は、博物館・道場(弓道場・武道場)・研修や宿泊施設・映画撮影所などを兼ねており、各種の武道団体も頻繁に練習や合宿に利用している。

会津の精神を学べる場所です。

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①南門/②映写室/③戟門/④東塾/⑤大学/⑥大成殿/⑦資料館/⑧水練水馬池/⑨幕末・明治記念室/⑩武講/⑪第一、第二、第三武道場/⑫木馬場/⑬弓道場/⑭弓道体験場/⑮天文台/⑯砲術場/⑰売店/⑱食事寮「楽故亭」

拝観料:620円
駐車場:有り(無料)

 

管理人の独り言

初代藩主 保科正之は、「他の大名家がどう動いても会津藩だけは決して将軍家への忠誠を忘れないようにと、もし忘れた場合は私の子孫ではないから、家臣たち従わない様に」と、その覚悟までも含めた非常に強いメッセージを込めた条文を残しています。

しかし、幕末、正之の教えが強固に根付いた結果、会津藩は悲劇の運命をたどる事になります。

文久2(1862)年、幕末・京都、幕府は尊皇攘夷派の集まった京都の治安維持のため京都守護職を設置、この重責を命じられたのが会津藩9代藩主・松平容保。躊躇する容保を最後に動かしたのはこの言葉でした。

藩祖 正之公の教えをお忘れか

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正之公の教え、それに従った容保と会津藩は最後まで明治新政府軍に抵抗、そして江戸幕府と共に滅びの道へ突き進んでいったのです。

 

 

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