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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

一乗谷…織田軍3万と朝倉軍2万が激突!

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  (朝倉義景

一乗谷…織田軍3万と朝倉軍2万が激突!

一乗谷城の戦いは、天正元年8月(1573年9月)に織田信長朝倉義景の間で行なわれた戦国時代の合戦です。…織田軍3万と朝倉軍2万が激突!

足利義昭によって敷かれていたいわゆる信長包囲網は、元亀4年4月12日(1573年5月13日)の武田信玄の死去により崩壊します。…信玄の死去により後顧の憂いをなくした信長は、直ちに京都に攻め上って足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼしました。

続けて同年8月、遂に信長は3万の大軍を率いて近江に攻め入った。標的は浅井長政、そして何度も信長自身を窮地に追い込んだ宿敵・朝倉義景との決戦です。

これに対して浅井長政は5000人の軍勢をもって小谷城に籠城し、また朝倉義景も自ら2万の大軍を率いて浅井長政救援のため、余呉に本陣を敷いた。

8月12日、近江一帯を暴風雨が襲った。信長はこの暴風雨により敵が油断しているはずと判断、信長は本陣より自ら1000人の手兵・馬廻のみを率いて軍を返し、朝倉方が守る大嶽砦(城)を奇襲した。

大嶽砦の陥落を知った朝倉義景は形勢を判断、撤退を決断した。

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朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い8月14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍つまり朝倉本家の直属軍勢、将はほぼ壊滅した。朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。

朝倉義景は8月15日に一乗谷一乗谷城)に帰陣したが、味方の劣勢を知った国内の武将らで馳せ参じるものも無く、もはや義景の手勢は近習含めわずか500人となってしまっていたと伝えられる。

8月18日、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧、これを焼き払った。往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った街は、灰燼に帰した。

手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、景鏡に促され大野郡へと移動していた朝倉義景は8月20日、仮の宿所として景鏡に指定されていた六松賢松寺を、周到に主を裏切った景鏡の手勢に囲まれた。

近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃した。…これにより100年続いた名族朝倉氏は滅亡したのです。

織田方は、軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井氏を滅ぼした ”小谷城の戦い” と続くんです。

一乗谷に行くと現在でも発掘調査が進められています…朝倉氏の繁栄の膨大な証拠が今でも多く地中に埋まっているます。


朝倉氏は、5代目の朝倉義景織田信長に滅ぼされる事となりました。…私、司馬遼太郎の戦国物はほぼ読破していまして、その中で朝倉義景は軟弱者に描かれていました。…ですから ”軟弱な朝倉一族” という印象を持っていたんです。…でも実際は、大変な武闘派…朝倉氏の歴史は戦乱の歴史だったんです。

朝倉氏は越前 75万石(現在の石川県と、福井県の北部)を領地とし5代100年に渡って繁栄し続けた名族です。…しかし信長にやられちゃったんですね。

それとチョット疑問に思ったんですが朝倉氏本拠地の ”一乗谷” ってホント不便なところですよ…海からも遠いし狭い谷なんです。…不便さを表すように現在でも小さな集落しかありません。

 

■後日談ですが地場の大手と言われる会社の社長と会食をする機会がありまして。
私 :「”金ヶ崎の退き口” と朝倉氏の本拠地 ”一乗谷”へ行って来たんですよ」
社長:「ああ私もいったよ…あんなもの見て何が楽しいのかね」
私 :「(へ?・・・・・)」

■私自身は、「ここが朝倉氏の本拠地だったんだ」 と思うと熱いものがこみあげてくるような感動を覚えましたが、歴史的背景を知らない人にとってなんの面白みも無いところなんですね。…「なんかこの社長、薄っぺらい人だな」 なんて思っちゃいましたよ…(笑)

※写真は、朝倉義景の館跡です。