千利休(1522年~1591年)
NHK 歴史秘話ヒストリアより
お茶パワー 戦国を動かす ~千利休と豊臣秀吉 友情と別れ~
京都・宇治市、宇治茶・高級茶としても知られるだけでなく、抹茶パフェ・抹茶チョコ・抹茶ロールケーキなどスウィーツにも使われています・・この宇治茶を愛し、銘茶として日本中に知らしめたのが戦国時代の茶人・千利休です。
まるで星空のような神秘的な輝き、世界に3つしか現存し無いといわれる『曜変天目茶碗』です・・あの織田信長もその一つを所有していたという名品で後世の取引価格は、なんと16億円というから驚きです。
更にこちら直径8センチ足らずの小さな茶入れ、『唐物茄子茶入』戦国時代には、すでに1億円もの高値で取引されました・・豊臣秀吉、徳川家康など名だたる武将たちの手を経た逸品です。
高級茶道具への熱狂ぶりは、天下人だけにとどまりません…
・九州の武将・大友宗麟は、弟が持っていた茶入れが欲しくて仕方がありませんでした・・弟が戦で囚われの身になった時、相手方に「弟は殺してもいいから茶入れは私に下さい」と言ったとか。
・奈良の武将、松永久秀は、戦に負けいよいよ落城というとき敵から「有名な茶釜を寄こせば命は助ける」と言われます・・しかし「これは誰にも譲りたくない」と茶釜に火薬を詰め一緒に爆死してしまったとか。
いったい何故、武将たちはそこまでお茶に夢中だったのでしょうか・・千利休を生み出した戦国お茶ブームの謎に迫ります。
episode1 戦国は茶で動かせ! 利休と秀吉 コンビ結成
今から400年前の戦国時代、それまでの秩序が崩れ、身分の低い者達が武力や才覚により次々と大名に成りあがって行きます。
この武将たちがこぞって始めたのが茶の湯(茶道)でした・・茶の湯は、もともと貴族や将軍家を中心とした上流階級の文化でした・・セレブになったものがみに付ける嗜みとなったのです。
静岡大学名誉教授(歴史学) 小和田哲男さん
「いわゆる武将たちの間で1つの教養というかステータスシンボル的なものがあったのです」
立身出世の象徴であり、虚栄心をくすぐる茶の湯の魅力に逸早く着目したのが織田信長でした・・織田信長が家臣に対し行ったのは茶の湯を制限し、許可制とする事でした。
優れた功績を上げた家臣にのみ茶の湯を行う事を許し、更に格別の手柄があった時には有名な茶道具を褒美として与える事としたのです。
有力家臣の一人・滝川一益が知人に宛てた手紙です。
「茶入れをいただきたかったのに遠くの国を与えられてしまった・・これでは茶の湯ができない」(滝川一益の書状)
静岡大学名誉教授(歴史学) 小和田哲男さん
「当時、戦いで手柄を立てると家臣は殿様から土地をもらう・・信長の家臣の場合は、土地を与える代わりに名物茶器を与えると・・これが信長の凄さですね」
茶の湯の秘めたる力を利用して家臣の統制を行っていた信長、その信長が注目したのが外国との交易が盛んだった町・堺でした・・堺では裕福な商人たちの間で茶の湯が嗜まれ茶道具の売り買いが盛んに行われていました。
その中から茶の湯に熟達した茶人たちが出現します…
天正3(1575)年、信長は堺でも特に有名な茶人3人を専属の茶道として召抱えます・・茶道具の鑑定や茶会を仕切らせる為でした。
3人のうち2人(津田宗及、今井宗久)は海外貿易や武器の売買を手広く行い高価な茶道具も沢山所有している富豪でした。
残る一人が千利休(当時54歳)です・・利休の職業は貸倉庫や問屋業、2人ほど裕福ではなく高価な茶道具はほとんど持っていなかったといわれています。
利休が持っていたというのが上記画像、紙の茶道具・・茶道具をふんだんに買う事が出来なかった利休は、他人の茶会で目にした茶道具の形や色を紙に記録し、その良し悪しを学んでいったといわれます。
卓越した心理眼を持つ利休は、家臣に与える茶器を大量に集めようとしている信長にとって重要な人物とみなされたのです。
茶の湯を通じて家臣を巧みに束ねる事で天下の覇者としてのし上がっていった信長、・・ところが…
天正10(1582)年6月2日、本能寺の変が勃発、信長は天下統一を目の前にしながらも無念の最期を遂げます・・この変の直後、信長が利用していた茶の湯の力に逸早くめを付けた男がいました・・信長の有力な家臣、羽柴秀吉です。
秀吉が明智光秀に対抗すべく兵を進めるさ中、行ったのが千利休と手を結ぶ事でした・・信長の下での利休の卓越した才能を目の当たりにした秀吉、信長亡き後、天下取りを目指していた秀吉は利休を必要不可欠な人物と考えたのです。
利休の威力が発揮されたのは、有力武将・徳川家康との対立においてでした・・秀吉は明智光秀を討った後、戦に勝利を重ね支配を広げつつありました。
しかし家康との戦いでは引き分け、武力で屈服させる事が出来ずにいました・・勢力的には勝っているがこのまま争いが続けば、いたずらに犠牲を増やすのみです。
天正14(1586)年、秀吉は和睦を狙い、家康に大阪での会談を申し入れる・・しかし会談に応じる家康が引き連れてきたのが1万を超える大軍勢、会談の内容次第では断固として対立し続けるというメッセージです。
これに対し、秀吉は意外な行動に出ます・・正式な会談に先立って京都に到着した家康のもとに駆け付け、わざわざ出迎えたのです・・この時、秀吉が伴っていたのが利休でした。
秀吉の狙いは、自ら出迎える事で家康のメンツを立てる・・そして茶の湯という非公式な場で胸襟を開き敵意のない事を示そうとしたのです・・その席上、利休に茶を立てさせていた秀吉は、こう家康に問いかけています。
「徳川殿、この茶人に見覚えがありませんか」(『千利休由緒書』より)
家康は、ハッとします・・「信長さまの城で何度もお見かけした事があります」、家康は茶人があの信長に仕えていた利休だと気付きます。
この茶席は家康に礼を尽くしもてなすと同時に自らが信長の後継者であると知らしめるものでもありました。
天正14(1586)年10月27日、茶会の翌日、家康は大阪城で正式に秀吉と会談、その席で秀吉の臣下となる事を告げます・・秀吉との格の違いを認めほこをおさめる事にしたのです。
緊迫した状況を打開した利休の存在、以後、秀吉と利休は時代を動かす名コンビとなって行くのです・・織田信長、豊臣秀吉が惚れ込んだ千利休・・秀吉はその後、利休をいち茶人としては異例なほど重用し、側近中の側近として取り立てます。
利休の茶の湯は、いったいなぜ天下人たちを魅了したのか・・こんなエピソードが伝わっています。
当時、京都にあった利休の家ではアサガオが庭一面に植えられており、夏になると大変美しく咲きほこると評判になっていました。
それを聞きつけた秀吉、ぜひそのアサガオで花見をしたいと茶会を申し入れます・・利休はこれを了承しますがなぜか利休は、肝心の庭の朝顔を一つ残らず切り落としてしまいます。
当日、秀吉が訪れると庭の朝顔は一輪も無し・・失望し、どういう事かといぶかしんだ秀吉が茶室に入ると床の間には一輪の朝顔が・・利休はこの一輪の美しさをじっくり味わってもらうため、あえて他の朝顔を切り落としたのです。(『茶話指月集』より)
相手の意をくみ取りながらも更にその予想の遥か上をいくサプライズで客をもてなす・・これが天下人たちをも魅了したのです。
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織田信長、豊臣秀吉が惚れ込んだ千利休・・秀吉は、利休をいち茶人としては異例なほど重用し、側近中の側近として取り立てます。
episode2 千利休が挑んだ・・戦国 茶の湯レボリューション
天正15(1587)年 京都市北部にある北野天満宮、今から424年前、この境内で前代未聞の茶会が開かれました・・上記画像は、北野天満宮に残されている『北野大茶湯図』です。
描かれているのは大小様々な茶の湯の席がずらりと並んでいる様子・・なんと1500人以上の人が参加したという史上類を見ない大イベントでした。
・茶室無しでムシロ一枚敷いただけの茶席
・ムシロすら無く、地べたに傘一本立てただけの茶席
・純金を一面に張り巡らせた茶室
このイベントを計画したのが名コンビ、利休と秀吉でした・・秀吉がこの大茶会に先立って御触れを出した内容が伝わっています。
「茶の湯に興味のある者は、武士、町人、農民、それ以外の者も皆集まって思い思いの茶を点てよ」
身分の枠を取り払ってそれぞれの持ち味で茶を振るまい共に楽しもうという、かつて無い試みでした・・ここ茶会をプロデュースしたといわれるのが利休・・関白となった秀吉の意向を受け、新政権を庶民に庶民に印象付けようとしたとも考えられています。
人間国宝美術館館長(日本美術史) 矢部良明さん
「利休は大衆も武将も平等にしたい・・天下平等、四民平等、極めて先進的な身分を超えた世界を創ろうという理想に燃え始めたのです」
大茶会を見事に成功させた利休、この頃から利休は貴族や富裕層が独占していた茶の湯の世界を庶民に開放しようと様々な試みを行うようになっていきます。
それまでの茶の湯では、中国伝来の希少価値の高い名品が珍重されていますた・・利休はこうした茶の湯のあり方に反発します・・利休が行ったのは新たに茶道具を作りだしてしまいました。
その一つが上記写真、『黒楽茶碗』日本の陶工が手作りしたもので質感は黒くゴツゴツした素朴ともいえるもの・・今までの華麗な中国茶器とは、まったく異なっていました。
人間国宝美術館館長(日本美術史) 矢部良明さん
「伝統を断ち切ろうとする強い意志が茶碗に込められている・・創作という切り口で新しい素材を多くの人たちに与えようとする方向に進みました」
利休は、象牙製の輸入品が殆んどだった茶杓も見直し、どこでも手に入る竹を使い美しい茶杓を作りだしました・・更に中国製の磁器がが定番だった花入れは、なんと漁師から譲ってもらった魚を入れる籠を転用しました。
利休の門人の一人、山上宗二は、こんな言葉を残しています
「山を谷に変え、西と東を入れ替えてしまいかのように茶の湯の決まりごとを破り、茶道具を自由に変えてしまった・・利休は感性に優れていたので、その結果、何事も面白くなった」(山上宗二記より)
利休の茶の湯改革の集大成ともいえる国宝『待庵』(京都府大山崎町)、上記画像が、現存する唯一の千利休作の茶室です。
2人の人間が座っただけでいっぱいになる僅か2畳の簡素な空間・・入口の高さは80センチ、誰もが頭を下げて入らなければなりません・・茶室の中では身分も貧富の差も無いという利休の信念が込められていると言われています。
利休は、こうした素朴さを活かしたデザインを秀吉から頼まれた茶室や屋敷に次々と活かして行きました・・ところがある頃から名コンビだった利休と秀吉のこのみに微妙なずれが生じます。
近年見つかった資料では…
「利休が作った茶室が秀吉の気に入らず造りさせ直された・・その他もことごとく直す事になった」(伝聞事より)
利休自身の言葉も残っています
「黒い茶碗にて茶を点てる事を秀吉様が嫌っている」(宗湛日記より)
■広がり始めた二人の価値観のづれは、やがて利休切腹という悲劇を生む事になるのです。
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NHK 歴史秘話ヒストリアより
お茶パワー 戦国を動かす ~千利休と豊臣秀吉 友情と別れ~
episode3 千利休切腹の真相とは
戦国時代、京の都の北部に位置していた一条戻橋、天正19年ここに罪人の遺体が晒されたといいます・・その罪人は千利休でした。
なぜ利休は死ななければならなかったのか・・その理由は今も日本史上最大のミステリーの一つです・・その手掛かりと言えるものがある茶会の記録(津田宗及日記)の中に残されています。
天正15(1587)年、秀吉は九州を平定して名実ともに天下人に近づきます・・この頃から秀吉は自らの権力基盤を不動のものとする為、厳しい支配体制を敷くようになります。
天正16(1588)年、『刀狩』を実施、農民から武器を取り上げて反乱の芽を摘み取り、武士との間に厳格な一線を引こうとしたのでした。
それまでは秀吉自身も含め身分を問わず実力のある者たちが自由に活躍する事が出来ました・・しかし、全国を平定すると体制を維持する為、厳格な身分制度が必要となってきたのです。
秀吉は各地の大名たちに対しても支配者として、それまでになく厳しい態度を示すようになります・・関東の大名・北条氏は、服従の意を表明しなかったため大軍で攻め入り、領地のほとんどを没収しています。
更に東北の大名・伊達正宗は、謀反の動きがあると厳しく処罰し、切腹寸前にまで追い込まれました。
九州の大友宗麟は、秀吉の様子をこう語っています…
「利休以外には、関白様に一言も物を申し上げられる者はいない」(大友宗麟の書状)
秀吉に意見できる大名は少なくなり、近づく事が出来るのは茶人の利休だけとなっていきます・・こうした利休を頼って徳川家康や前田利家、蒲生氏郷などが集まるようになっていきました。
いち茶人を取り巻く大名たちの動きは、身分の統制を強めている秀吉には不穏な動きと映ります・・秀吉はやがて利休の茶の湯に対しても規制をかけるようになりました。
茶の湯の秘伝を授ける際には、秀吉の許可を得て目の前で行う事・・利休と大名たちの茶の湯を通じたつながりに歯止めをかけようとしたとも言われています。
更に利休に衝撃を与える事件が起こります・・利休の愛弟子である茶人が秀吉の機嫌を損ねたという理由で鼻と耳をそぎ落とされ処刑されたのです。
茶人であれ逆らえば容赦はしない事を暗に示したともいえる出来事でした・・利休と秀吉との溝はますます広がって行きました。
天正18(1590)年 利休69歳、ついに決定的ともいえる出来事が起こります・・秀吉と利休が同席した茶会でのこと・・この時、秀吉は利休が席を外したすきにチョットしたいたずらを仕掛けます。
それは抹茶の入った茶碗と茶入れの隙間に一輪の野菊をしのばせる事でした・・あの朝顔の茶会の時のように一輪の花を際立たせて見せてくれたように、この野菊にも利休ならではの工夫で応えてくれるのではないか秀吉は期待します。
ところがこの時、利休が行ったのは、野菊を無言で取り去る事でした…
茶道資料館副館長(茶道史) 筒井紘一さん
「利休は、野菊をまったく無視してますよね・・ポッと抜いて脇に置くだけでしょう・・秀吉にしてみればどういう趣向でこれを仕上げていくのかなと期待したのに無視された・・これが秀吉にしてみれば利休との別れになったのだと考えます」
二人の対立は、もはや取り返しのつかないところまで来ていました。
天正19(1591)年、利休についての見過ごし難い噂が秀吉の耳に入ってきます…「利休が自分の名声が高い事をいいことに、このみの茶碗を不当な高値で売りさばいている」と言う事でした。
更に京都の寺、大徳寺に自分を敬わせるための木像を作らせたというのです・・事実、大徳寺には利休の木像がありましたが、これは多額の寄付をした利休に感謝し、寺側が独自に行った事で利休が作らせたものではありませんでした。
しかし秀吉は、こうとらえました・・置かれているのは大徳寺の山門の楼閣だ・・秀吉がくぐる事もある山門に自分の木像を置くとは思いあがっている!!
秀吉の耳に入ったこれらの情報は、利休を危険視する秀吉側近の中傷によるものだと考えられています。
天正19(1591)年2月13日、秀吉は利休を京都から追放する事を決めます・・処罰が決まるまで堺で謹慎する事が決まりました。
同時に秀吉は、大徳寺にあった利休の木像を京都の一条戻橋のたもとに晒しました・・直ちに謝罪し、服従せねば本人をもこうなるという脅しでした。
利休を慕う大名の中には、秀吉の母と妻を通じて詫びるとよう助言する者も現れます・・しかし利休はこれを固辞します…
「茶の湯で天下に名をあらわした私が命が惜しいとて女性たちを頼ったとあっては無念でござります」(千利休由緒書より)
利休もまた天下に名をはせた茶人としてのプライドから進んで屈することは出来ませんでした・・利休の最後の手紙というものが残されています。
「かつての日々を思い出すと涙が流れます・・悪い天気もいつかは良くなりましょう・・悲しい気持ちです」(千利休の書状)
時がたてばいずれ秀吉も心を鎮めてくれるのではないか・・利休はそう願っていたのかも知れません。
静岡大学名誉教授(歴史学) 小和田哲男さん
「まあ秀吉にも迷いがあったのです・・一応、ケンカをふっかけた訳ですから相手が屈服して謝ってくれば、おそらく振り上げた拳も下ろしたでしょう・・しかし利休の方では、芸術家としてあえて頭を下げるという行動には出なかった」
京都追放から10日後、秀吉は最後の決断を下さざる得なくなります・・それは切腹を申しつける事でした。
天正19(1591)年2月28日、降りしきる雨の中、利休の屋敷を3000人もの兵が取り囲みます・・利休に切腹を申し渡す使者、利休の反応は…
茶を点てもてなす事だったといわれます。
これが利休最後の茶となりました・・この夜、利休は切腹、茶の湯一筋に生きた70年の生涯でした。
千利休の死後、秀吉はその一族をも処罰、千家一族はバラバラになり、利休の茶の湯の伝統は危機に晒されます・・しかし、それを救ったのが徳川家康など利休に助けられる事も多かった武将たちでした。
利休の死後、利休の子、小庵は会津に送られ謹慎の身となった・・この時、小庵を支援し、秀吉に恩赦を願い出たのが利休と深い親交のあった会津の大名、蒲生氏郷と徳川家康でした。
利休の死の3年後、小庵は秀吉に許され京都に戻ります・・この小庵が利休の伝統を継承したことで今も続く、表千家、裏千家、武者小路千家などの茶の湯の流派が生まれることになったのです。
会津若松では、今も千家のルーツを築いた小庵をしのぶ茶会が開かれています。
茶道裏千家淡交会 会津支部 伊藤宗美さん
「継承者の小庵さんが京都に戻らなかったら全てのお茶の文化というのは変わっていただろうと思います」
利休の死後、まもなく秀吉は、九州に名護屋城を築城
それでは、最後に・・近年、九州で利休と秀吉の絆を物語るものが発見されました・・利休を失った秀吉の想いにまつわる秘話です。
佐賀県唐津市、名護屋城跡・・秀吉が築いたこの城跡から近年、注目すべき遺構が見つかりました・・茶室の後です。
これまで秀吉は、名護屋城では黄金の茶室を愛用してきた事が知られてきました・・しかし、見つかった茶室は素朴でつつましいたたずまい・・利休が生前愛していた茶室によく似たものでした。
秀吉がこの頃に出した手紙です
「利休が好むような屋敷になるようねんごろに造ってほしい」(秀吉が部下に宛てた手紙)
かつては利休の造る茶室に不満をもらしていた秀吉、しかし利休の死後、日が経つうちに利休が伝えようとしていた素朴な美しさが理解できるようになったのかも知れません。
「昨日、利休の作法で食事をしましたが、たいそう趣がありました」(秀吉が母親に宛てた手紙)
■戦国時代、その後の日本の基礎となる革新を行いながら非業の死を遂げた千利休・・その利休の死を誰より悲しんだのは、共に天下に駆けのぼりながら切腹を命じざる得なかった豊臣秀吉自身だったかもしれません。
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