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弘化元(1844)年6月30日 高野長英、脱獄する

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高野長英(1804年-1850年

弘化元(1844)年6月30日 高野長英、脱獄する
思うままに生き、諦めない

周囲に遠慮しつつ生きてゆくのが日本人の常だった時代、この人物は強烈な個性を放ち、疾風の生涯を送った。幕末の蘭学者高野長英である。

文化元(1804)年、水沢(岩手県奥州市)の武家に生まれ、母の実家である侍医、高野家を継いだ。若くして江戸に留学し、のち長崎に赴いてシーボルト鳴滝塾で学んだ。とりわけ語学に秀で、オランダ語による医学書兵学書の翻訳を得意とした。

長英はやがて家督を捨て、江戸で町医者として自由に生きる道を選んだ。そして田原藩(愛知県田原市)家老、渡辺崋山らとも交わった。西欧の事情に通じた長英は、幕府の鎖国政策を暗に批判する書物『夢物語』を著して天保10(1839)年、永牢(ながろう)(無期禁錮)の判決を受けてしまう。いわゆる「蛮社(ばんしゃ)の獄」である。

そもそも彼に、幕府に盾突く意図があったわけではない。海外情勢を把握する重要性を指摘したかっただけである。思いの外の重罰に抗議し、赦免願も聞き入れられないと分かると、脱獄という非常手段に訴えた。

弘化元(1844)年6月30日未明、買収しておいた世話係の囚人が小伝馬町(東京都中央区)の獄舎に火を放った。延焼の危険性がある牢内の犯罪人は、後日の出頭を条件に釈放(切放(きりはなし))される慣行を利用したのである。

長英はもちろん、出頭しなかった。潜伏を支援する縁者もいたようで、郷里の水沢や江戸、宇和島愛媛県宇和島市)などで6年余りを、「指名手配犯」のまま蘭書の翻訳や医業を続けながら暮らした。

しかし幕府の追及は厳しく、嘉永3(1850)年10月30日、江戸・青山に家族とともに潜伏中を同心に踏み込まれた。自刃したとも、傷により落命したともいわれる。独立自尊を貫いた47年の人生だった。(渡部裕明)