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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

今こそ知りたい! ジョン万次郎 日本開国前夜 驚きの舞台裏

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(マギー・ブロイス著『HEART of SAMURAI』)

NHK 歴史秘話ヒストリア
今こそ知りたい!
ジョン万次郎 日本開国前夜 驚きの舞台裏

今、アメリカの子供たちの間で人気を呼んでいる日本人…それがジョン万次郎、きっかけは2011年、万次郎の半生を描いた物語が児童文学賞を受賞した事でした。

学校では授業の教材としても取り上げられています。人気の秘密は、幾多の苦難を前にしてもたくましく生きた不屈の精神にあります。

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子供たち…
「万次郎は本当にカッコイイ」
「どんな困難も乗り越えていったのがすばらしいわ」
「万次郎は素敵な人、私も彼のように、新しい国や物を見て、いろいろな事に挑戦したいわ」


episode1
少年漁師の大冒険!
究極の国際サバイバル

江戸時代、幕府は鎖国政策をしき外国との接触を厳しく制限していた。しかし世界的に海運、漁業が活発になると、外国船が日本近海に姿を現すようになります。

文政8(1825)年、異国船打払い令
文政10(1837)年 万次郎、土佐国高知県土佐清水市)に生まれる…漁師だった父は幼い頃に他界、万次郎は奉公に出て家族を支えていました。

天保12(1841)年 万次郎14歳、漁師になり初めての海へ…しかし嵐に遭遇、6日間の漂流の末たどり着いたのは、伊豆諸島の南の果て鳥島、土佐から750キロ離れた絶海の孤島でした。

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鳥島

幸い船に乗っていた5人全員無事、しかし島には飲み水、食糧も無かったのです。…そこで目に付けたのはアホウドリ、繁殖のために島に大量に飛来していたのです。

天保12(1841)年5月9日、なんとか飢えをしのいで5カ月、沖合に一隻の船が現れます。米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号)に助けられたのです。

明海大学(幕末情報史) 岩下哲典 教授
「もし万次郎が帰国すると何らかの処罰を受ける可能性があります。異国船打払い令が出ている日本にはジョン・ハウランド号も近づけません」

仕方なくハワイに向かいます…そんな中、万次郎は積極的に新しい環境になじもうとします。 『BLOWS』 万次郎が初めて覚えた英語、クジラを見つけた時の合図です。

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(There she blows! 「クジラが潮を吹いたぞ!」)

クジラをとる様子を見て言葉の意味を理解したのです。そして万次郎は実際にクジラを発見、次第に船員たちの信頼を獲得していったのです。

いつしか仲間として認められた万次郎は、船の名前ジョン・ハウランドにちなみ ”ジョン・マン” と呼ばれるようになりました。

天保12(1841)年10月8日 無人島で救助されてから5ヵ月後、船はハワイに入港、…ここで船長のホイットフィールドは万次郎に思いもよらない提案をします。

アメリカでしっかりとした教育を受けて見ないか」 …万次郎はアメリカ行きを即決、新たな世界を見たいという好奇心が勝りました。

天保14(1843)年 万次郎16歳、船は母港のマサチューセッツ州ニューベッドフォードに入ります。町は捕鯨船の一大基地、大いに賑わっていました。

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(万次郎が描いた鉄道)

万次郎は、ホイットフィールド船長の自宅に居候しアメリカの教育を受ける事になります。小学校で基礎から英語を学びます。

夜には家庭教師も万次郎はホイットフィールドの援助で徹底的に英語を学びます。

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英米対話捷径)

万次郎は後に 『英米対話捷径』 という日本初の本格的英語会話テキストを作成します。英単語の脇にはカタカナで発音を表記、現代のテキストに通じますね。

その後、船乗りを育成する専門学校に入学、地理・航海術など高度な専門知識を身につけていったのです。

 

episode2
すべては友情のために
万次郎究極の決断

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ヘンリー・ホイットフィールド
(ウィリアム・ヘンリー・ホイットフィールド)

ホイットフィールド、万次郎を救った捕鯨船の船長であり、アメリカでの生活を支えた人物です。

天保14(1843)年 万次郎16歳、ホイットフィールドと教会に出かけます…すると 「ここはお前の来るところではない帰れ」 …万次郎は白人で無い事を理由に教会への立ち入りを拒まれたのです。

ホイットフィールドは激怒、 「平等を説く教会が差別するなんてあるまじき事だ」 即刻退会をして他の教会に通わせます。

ホイットフィールドには、この時子供が無く、なおの事、万次郎を大切にした…協会より万次郎を守ることを優先したのです。こうして万次郎は充実した日々を送ります。

しかしある日、船員仲間から日本への怒りをぶつけられます。…「日本はなぜ困っている人間を助けないんだ」

この頃、アメリカの捕鯨船がしばしば難破し、乗組員が日本に漂着し、監獄に押し込められ、食事も十分に与えられなかったのです。…アメリカ世論は反発します。

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アメリカの捕鯨船員に対して残虐な日本人」(『New York Daily Times』)

心を傷める万次郎、そんな時、ホイットフィールドが常日頃語っていた言葉に思い至ります。

「どんな時も
他人の幸せに役立つ術を
考えてほしい」
(ホイットフィールド)

そして万次郎は決断するのです…

「船乗りたちが
安心して仕事が出来るよう
日本を開国させます」
(ジョン・マン)

帰国を決断したが鎖国中の日本です…まずは沖縄、当時の琉球を目指しました。琉球は日本の薩摩藩の支配を受けながら、中国とも関係の深い王国で鎖国をしていなかったのです。

嘉永4(1851)年1月3日 万次郎24歳、琉球上陸、投獄されこそしませんでしたが、役人から事情聴取を受けます。
アメリカで暮らす事になった経緯
・政治、経済状況
・最新の航海術
万次郎が語る驚くべき内容に取り調べは長期に渡ります。

嘉永5(1852)年 万次郎25歳 琉球⇒薩摩⇒長崎⇒土佐 …各地で同じような取り調べを受け、故郷土佐についたのは、琉球上陸から1年半を要したのです。

14歳で漂流してから11年、万次郎はようやく母の元へと帰りつきます。…念願を果たした万次郎、この後、ホイットフィールドへの誓い、日本の開国を果たすという難題に挑むのです。

 

episode3
日本開国前夜
知られざる万次郎の活躍

嘉永5(1852)年 万次郎25歳、幕府の取り調べから自由になった万次郎は、その知識と能力を評価され、土佐藩の学校で英語を教え始めます。

嘉永6(1853)年6月3日、それから半年、黒船来航、4隻のアメリカ軍艦がやってきました…艦隊を率いるペリー提督は戦いもじさない強い姿勢でアメリカ大統領からの親書受け取りを迫ります。要求は…
1.漂流民の保護
2.港を開く…燃料・食料補給のため
…これは鎖国政策の転換を意味します。

突然の事態に幕府は大混乱、幕府の意見は割れていたが、ペリーはおかまいなし、回答期限を翌年とし日本を去ったのです。

これらの動きに、土佐藩の一家臣でしかない万次郎は無力でした。…その後も幕府は、アメリカの内情を全く知らないので結論は出せません。

そんな中、…「土佐の万次郎なる者、アメリカの内情に詳しいと聞く、江戸に召しだしては」(『大槻磐渓の建白書』より)

万次郎が帰国した際の取り調べ記録を評価していた大名や学者から、万次郎登用の声が上がったのです。

嘉永6(1853)年 万次郎26歳、江戸への出頭命令が下ります。
嘉永6(1853)年9月12日、ペリー再来日まで4ヵ月、万次郎は、老中首座・阿部正弘から呼び出しを受けます。

知りうる限りのアメリカの情報を話すよう求められた万次郎、この時の証言の数々が記録に残っています。

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(通航一覧続輯)

1.アメリカ人は、大小の鉄砲の扱いは慣れている
2.刀・槍の稽古ははしていません
3.日本は流れ着いた外国人を獣のように扱うと残念に思っている
4.アメリカは我が国とよしみを結ぶことだけを願っています

アメリカには敵意が無いと断言した万次郎、当時誰よりもアメリカを知るこの言葉に、幕府高官たちは動かされます。

万次郎の審問から間もなく、幕府は開国へと大きく舵を切ったのです。

そして万次郎は海外事情に通じた重要な人材と認められ、幕臣に登用されます…更には本人の強い希望で交渉の通訳を務める事になったのです。

ところが幕府の実力者、水戸藩徳川斉昭が猛反対、…斉昭は万次郎の事をアメリカのスパイだと疑うしまつ。

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徳川斉昭

そして万次郎の通訳登用は白紙に戻されたのです…しかし万次郎が幕府を動かして決定した、開国という大方針、それだけは揺らぐことはありませんでした。

嘉永7(1854)年3月3日 日米和親条約締結、…
1.日本沿岸に漂着したものは救助する
2.下田、函館を開港する

…ついに万次郎の悲願は達成されたのです。


その後の万次郎
と子孫の友情

その後、万次郎は、開成学校(現・東京大学)で英語を指導、福沢諭吉大山巌ら新時代の担い手を育てた。

明治3(1970)年 万次郎はかつて暮らしたアメリカの地を訪ねた。…ホイットフィールド船長と対面、20年ぶりの再会でした。

二人は互いの思いでや別れてからの出来事を語りあい、話は尽きる事は無かったとのことです。

その後、二人の厚い友情は、子供、孫と受け継がれますが、日米の間に太平洋戦争が勃発すると両家の交流は途絶えます。

そして終戦、一人のアメリカ兵が突然、万次郎の子孫・中浜家を訪れます。…ホイットフィールド家の依頼で安否を確かめにやってきたのです。

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(5代目)

現在、両家の交流は5代目になっても続いているのです。

万次郎の波乱に満ちた人生の物語は、これからいくつもの言語に翻訳され、世界中で出版される事になっています。