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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

大阪から江戸を撃つ! 真説・大塩平八郎の乱

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大塩平八郎(1793-1837)

NHK BS歴史館
大阪から江戸を撃つ! 真説・大塩平八郎の乱

作家 童門冬二
「この大塩の乱が明治維新の始まりだという人が多いのです」

大阪城天守閣 主任学芸員 宮本裕次
「大阪の人にとっては、大阪に生まれて大阪で育った大塩平八郎が日本の国家を憂いて立ちあがったわけですから、たとえ教科書の隅っこでも悪い気はしません」

漫画家 黒鉄ヒロシ
「人としての美しさ…自分が従属する体制だから守ろうというのではなく大塩は違うところに立っている」

大塩の乱の舞台となった大阪、江戸時代、天下の台所と呼ばれ全国の物流が集中する経済の中心地でした。

平八郎は幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられます。与力だった祖父の後を継いで14歳から与力見習いを始めます。

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大阪奉行所町奉行に対して与力が30名、その部下である同心が50名配置されていました。…奉行所は2つ、西町奉行所と東町奉行所です。

上司にこびる役人が多い中、大塩は正義を貫き、賄賂など受け付けず清廉潔白な人物として庶民にも評判でした。少し堅物とも思える人物でしたが優秀な与力として大阪に大塩ありと誰もが一目置く存在なっていきます。

そんな大塩の名を広めた三大事件
1.キリシタン逮捕事件(1827年
怪しげな祈祷を行い庶民から金品をだまし取っていた宗教団体をキリシタンとして摘発。

2.破戒僧処分事件(1830年
寺の中で賭博をするなど乱れ切った生活を送っていた悪僧50人を逮捕、遠島処分へ。

3.大規模な組織犯罪事件
大塩最大の捕り物…全国の富が集まる大阪ならではの大規模な組織犯罪が発覚。当時町ではなかなか検挙出来ない殺人や強盗が相次いでいました。大塩の調査の結果、犯罪組織のリーダーが判明します。
あろうことか大阪西町奉行所 筆頭与力 弓削新右衛門…弓削は役人という立場を利用して犯罪組織を操っていたのです。
弓削一味が人々からせしめた金は3000両(現在の6億円)…大塩は次々と弓削の手下を摘発、犯罪組織は崩壊し、リーダーの弓削は自害します。


大塩平八郎の乱
ノンキャリの限界 大阪生まれ・下級役人の不満

しかし、この難事件解決の翌年、大塩は突然、辞職します。働き盛りの38歳、人々を驚かす行動でした。

関西大学文学部 藪田貫 教授
「大塩辞職の裏には地方の下級役人の不満と鬱憤があったんですね…与力の限界です」

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上記写真は当時大阪にいた武士の組織図です。(『浪華御役録』)

上の2段は大阪城代町奉行など今でいうキャリア組、彼らは江戸からやってきて数年するとまた江戸へ戻って出世します。

一方下の4段は、大阪で採用される与力や同心たち、いわばノンキャリです。与力の大塩もノンキャリでした。彼らはどんなに優秀であっても江戸へ士官したり、キャリアアップする事はありません。

大塩は後に友人に宛てた手紙の中でこう語っています…「幕府の重職でなければ十分に思い通りには出来ない…与力はこりごりだ」(『平松楽斎宛ての手紙』より)

大塩は与力をやめ、自ら開いた塾(洗心洞)で門弟への教育に専念するようになります。…大塩平八郎の乱まであと7年、38歳で役人をやめた大塩はこの時何を感じていたのでしょうか。


大塩平八郎の乱
迫りくる決起への足音!

大阪市北区の成正寺、ここに大塩が乱の3ヶ月前、激しい怒りを綴った檄分の本物が残っています。…2000字を超える文書には、世の中の不正や矛盾がいかに許し難いか強い言葉で綴ってあります。

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決起への参加を呼び掛ける為、大量に刷られ近隣の村々へ配布されました。

「多くの人々が困窮している今、政治を行う器ではない小役人どもに国を任せておくから災いが起きるのだ」(『檄文』より)…庶民を顧みない役人たちを激しく非難…更に大塩が批判の矛先を向けたのが裕福な大阪の商人たちです。

関西大学文学部 藪田貫 教授
「鴻池や加島屋などの大商人を批判…沢山の米を持っているのだから蔵を開いて救済すべきだといっています」


大塩平八郎の乱
困窮の大阪!大塩の怒り!

大塩が奉行所を辞めて3年、日本中を天保の飢饉が襲います。その惨状は目を覆わんばかり、大阪だけでも毎日200人以上の死者が出たといいます。

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更に大塩決起の前年、関東を中心に一揆が続発、大阪でも豪商への打ち壊しが相次ぎました。庶民の窮状を見かねた大塩は、奉行所に対策を進言します。

「米不足とはいっても大阪には全国から米が集まっている。その多くは商人が売り惜しみをし、蔵に貯め込み値を吊り上げようとしている。商人に蔵を開けさせ、米を分け与えるよう指導してはどうか」

しかし新しく江戸から赴任してきたキャリア官僚、跡部山城守は大塩に対し、…「元与力の分際で何を言う!身分をわきまえろ」…耳を傾けようとはしませんでした。

更に驚くべき事がありました。大坂町奉行所は飢えで苦しむ庶民をよそに何と江戸に米を横流し、幕府中枢のご機嫌を伺い出世の点数稼ぎに奔走していたのです。

憤慨した大塩は、いよいよ行動を決意します。貴重な蔵書を全て売り払い人々の救済金を捻出、その金額は620両(現在の1億3000万円)…大塩は庶民にお金の引換券を配ります。…そして「天満に火事あらば必ず駆けつけよ」と言い添えたといいます。

機は熟そうとしていました。…そして決起を呼びかけるあの檄文が村々に配布されました。檄文は、困窮する庶民を尻目に無策なままでいる幕府の官僚に激しい怒りをぶつけていました。


大塩平八郎の乱
決起へのカウントダウン!

実はこの檄文を刷る為の版木作りにもある工夫を施していました…大塩が作らせた版木を忠実に再現したのが大塩事件研究会の松浦木遊さんです。

大塩事件研究会 会員 松浦木遊さん
「事前に秘密を守るため版木は分割されて作られました。一つのコマであれば何を書いてあるかわからない…集合して初めて一つの文章になるのです」

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版木は細かく分割され、1枚だけでは檄文の意味がわからないようになっていたのです。大塩の乱は、極秘裏に準備が進められて行きました。

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漫画家 黒鉄ヒロシ
「乱が成功するかどうかは、彼ぐらい頭が良ければ無理だと思っているはずです。版木をあそこまでやる計画性は、檄文を出来るだけ広めたい…後世に残したい…これが目的だと思います。『檄文』が目的で『乱』は後からとって付けたような…観念的なものを大事にして実際行動はどうでもよかったのではなかったのかと思います」

大阪城天守閣 主任学芸員 宮本裕次
「大塩は言葉の力を何よりも信じていたのです。遠くに自分の意思を伝えるにはうわさ話じゃ駄目なんです…文字の形で伝えて残さなければならないのです」


大塩平八郎の乱
ドキュメント決起の日!

天保8年2月19日、決起の日、それは東西の町奉行が新しく赴任する日、二人を襲撃する絶好のチャンスでした。

午前8時、耳を劈く砲声とともに元与力と門弟40名によって大塩平八郎の乱は始まります。決起の前、門弟の一人が陽明学の教えから見ても幕府への反乱は行き過ぎだと必死に大塩を止めました。

しかし、もはや後には引けない大塩はその弟子を刀にかけます…弟子を殺めてまで行動に踏み切ります。

当初目指すは東西の町奉行所でした…しかしこの計画はとん挫、事前に情報が漏れてしまい迂回を余儀なくされます。大塩は鴻池など有力商人の屋敷に向い次々と蔵に火を放ちました。

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上記写真は大塩の乱の様子を描いた絵です。民を救うと旗を掲げ、大砲を引っ張りながら天満の町を練り歩きました。

町に上がった火の手を見て近隣の村々から農民たちが駆けつけました…部隊は総勢300人にまで膨れ上がりました。…もはや奉行所の手におえるものではありません。

大阪城から武士団が出撃しました。やがて大塩たちと幕府軍は大阪の西、淡路町の辻で遭遇します。幕府軍は大塩たちに発砲、大塩につきてきた民衆は驚き、チリヂリ、バラバラに逃げ去ってしまします。


大塩平八郎の乱
衝撃! 江戸へ送った密書

午後4時、大塩の蜂起は、わずか8時間で鎮圧されます。…大塩平八郎と息子の二人は、忽然と姿を消し行方知れずとなります。…元地方役人の反乱は、これで終わったかと思われました。

しかし事件はその後、思わぬ方向へと展開します。実は大塩は決起直前に江戸の幕府に向けて密書を送っていたのです。

その密書の存在が明らかになったのが今から28年前、これを機に大塩の乱は江戸幕府全体を巻き込む一大不祥事の告発という様相を帯びてくるのです。

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大塩平八郎建議書)

上記写真は三島山中で発見された大塩の密書の写しです。密書は綺麗な白木の箱に3通入っていました。

内2通は、時の幕府に対して大きな影響力を持っていた人物に宛てたもの
昌平坂学問書 林述斎
水戸藩藩主 徳川斉昭

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そこには共通して大塩が幕府の中枢である老中に何事かをかけ合っていると記されていました。…これはいったいどういう事なのか?

真相は3通目の老中に宛てた密書の中にありました。

それは驚くべき事実、なんと老中の内、4名までが不正に関わっている事を大塩が告発していたのです。…老中たちが関わっていた悪事とは、”不正無尽” 庶民がお金を出し合うシステムを利用した詐欺行為でした。

胴元が多くの人から金を集め、くじの形で配当、ところが不当に高いマージンを胴元がせしめていたのです。…老中たちはその不正を黙認、胴元から上納金をせしめ私腹を肥やしていたのです。

大塩は一つ一つ丹念に帳簿を調べ上げました。…この ”不正無尽” は天下の台所、大阪を舞台として町奉行所の役人が差配…疑惑はかつてこの地に赴任していた幕府の上層部にまで及んだのです。


大塩の告発に対し幕府の反応は?
昌平坂学問書 林述斎
水戸藩藩主 徳川斉昭
不正の当事者、老中たちから何らかの反応があったかという記録は一切残っていません。

その後、この密書は不思議な運命をたどります。…いったん江戸に届いた密書は大塩の元に返却される途中に盗まれてしまったのです。

それが伊豆山中で見つかったのです。…幸運にも密書はこの地の有力者に拾われ、写しが取られました。…そして長らく埋もれていた記録は、28年前に脚光を浴びることになったのです。

大阪城天守閣 主任学芸員 宮本裕次
「大塩が幕府の要人そのものを直接攻撃しようとしているんです。そんな大それた事も一方でやっていたのかという事で大塩の評価が変わりました。…それまでは武士だけど民衆の味方という評価だったのが、この『大塩平八郎建議書』が出て来てからは老中を始めとするエリート官僚に大打撃を与えるということを画策していたのです」


大塩平八郎の乱
親子逃亡40日 行方不明の真相!

乱の張本人、大塩が消えた!…元与力の反乱に幕府は震撼!…江戸に現れるかもしれないという噂に大捜索が始まりました。

そして捜索の為に白羽の矢が立ったのが斉藤弥九朗、幕末江戸三大道場の一つ、練兵館を開いた剣豪でした。…斉藤は大塩を斬るという密命も帯びていました。

しかし斉藤が大阪で目にしたのは、意外なほどの大塩人気でした。

「大阪の民衆はたとえ大塩の首にかけられた懸賞金が百両から千両に上がっても大塩を差し出すつもりのものはいない」(『浪華騒擾紀事』より)

「町民たちは大塩を太閤秀吉になぞらえ英雄あつかいしている」(『甲子夜話』より)

大塩の逃亡もやがて終りを向えます…乱から40日、ついに居所を突き止められました。そして…なんと持っていた火薬に火を付け息子と共に爆死します。

大塩平八郎 享年45…その遺体は同志とともに磔にされました…焼け方はひどく、判別すらままならなかったといいます。

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しかし、なぜ大塩は乱が鎮圧された後も逃亡し続けたのでしょうか?

関西大学文学部 藪田貫 教授
「40日間の潜伏は、逃げ回ったのではなく、乱が壊滅してすぐにそこ逃げて40日間いるわけです。つまり確信犯的にそこで待っていたのです。江戸に書類を送った反応を見ていたのです。…たとえば老中の水野が辞職したとか…幕府の大きな人事刷新が行われたとかいう噂が伝わってくるのを待っていたと思います」


■大塩は幕府の人事が刷新され、民衆第一の政治が行われる事を切に望んでいたのです。…大塩平八郎の乱は単純な民衆の為に立ちあがっただけではなかったのです。

大塩平八郎の乱の後、30年後に明治維新が起こります…ペリーが来る前から下級武士による反乱の火は、すでにこの時点から上がっていたのです。