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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

北斎が愛した町 信州小布施

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信州小布施 北斎

「栗と北斎と花のまち」信州小布施

小布施町(おぶせまち)は、長野県の北東に位置する町。…長野県内で最も面積の小さい自治体。葛飾北斎をはじめとする歴史的遺産を活かした町づくりを行っており、今や北信濃地域有数の観光地として認知度も高くなっています。

 

小布施の歴史
鳥羽、後白河の院政期に出された荘園の保護を求める申請書に高井野牧、東条荘などの名が見られる。

元暦元年(1184年)2月、敗戦で領地を失っていた平繁雅に旧領であった東条荘狩田郷の領主職への復活を源頼朝が認めた。

応仁3年、高梨政高と井上政家との間で狩田郷の領有を巡る争奪戦の舞台となった。高梨氏は戦国時代までこの地を支配していたが、越後の上杉氏に臣従し、上杉氏が豊臣政権により会津に移封されたことに伴い、この地を去った。

戦国時代の猛将福島正則徳川幕府によって広島藩50万石から川中島藩2万石に減封されて終焉の地となった。

幕末には、豪商高井鴻山が招いた葛飾北斎佐久間象山小林一茶ら当時の一流文人との交流の地となった。 

福島正則終焉の地” とか言われると歴史好き…特に戦国好きの管理人としては胸がざわつきます。

 

小布施と栗の歴史
今からおよそ六百年前の室町時代に始まるといわれています。
当時、この地方の領主だった荻野常倫が故郷、丹波国から栗をとりよせて植えたのが始まりと伝えられています。

小布施の土壌が栗の育成に適していたため、江戸時代にはすでにうっそうとした栗林が広がっていたということです。小布施栗は品質がよく美味ということで、松代藩が毎年秋に将軍家に献上する習わしとなり、その名を天下に広めたといわれています。

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小布施の街のご案内

この町の散策が実に楽しい…なんと一般の住宅が庭を開放していまして観光客が庭を横切って通り抜けが出来るんです。…個人宅までキレイでお洒落…センスがいい…細かいところまで手入れが行き届いていて、昭和を感じさせる落ち着いた雰囲気…こんな街他に無い。

それでは地図にて小布施を案内します。
青⇒小布施駅」「ピンク枠:中心部」「赤枠北斎館」「青枠:高井鴻山記念館」「緑枠:日本のあかり博物館」「黄枠:岩松院」

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小布施駅
週末は長野電鉄ロマンスカーが走ります。ロマンスカーと言ったら2階建て小田急ロマンスカー現役で走っているのはここだけ。…と、この話をしたいわけではなく、観光案内所が駅前にあります。まずはここで散策マップをゲットして情報収集。散策のルール、ポイント、お薦めなど聞くといいです。

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こちらのプレートが “見学OK” の目印。お寺やレストランから個人宅まで、オープンガーデンは130軒ほどあります。チョットした探検気分を味わいましょう。

 

小布施中心部
お洒落なお店が沢山並んでいます。食べ歩きも楽しいですが、やはり小布施に来たら ”栗” です。モンブランを食べなきゃダメ。どこで食べても美味しいけど、管理人のお奨めは ”小布施堂えんとつ”  目印は煙突です。

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高井鴻山記念館
高井鴻山(たかいこうざん)は、小布施で酒造業を営み巨万の富を築いた豪商、幕末期に佐久間象山をはじめ当時の日本史を彩った思想家や、葛飾北斎など文人墨客たちと幅広く交流がありました。高井鴻山記念館は、当時の面影を色濃く残す建物とともに、鴻山が数多く残した書画の作品を展示しています。

小布施の歴史を知るうえで、こちらは立寄っておくべきところです。
拝観料:300円

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日本のあかり博物館
文化財に指定されたコレクションは963点、灯火具はもとより、引き札や看板、ろうそく作りや油絞りなどのあかりの商工に関するもの、灯火具の描かれた浮世絵版画や絵画なども含まれています。

小布施は、江戸時代から明治時代にかけて、千曲川の堆積土を利用した菜種の生産が盛んで、最盛期には搾油所29軒を数えました。この菜種油は、江戸時代のあかりの燃料として不可欠のもので、小布施で生産された菜種油は、時には大笹街道から遠く高崎や江戸へも運ばれ、大都市の夜を照らしていたといいます。

日本のあかり博物館は、このようにあかりに縁のある小布施町に、 わが国初の灯火具専門博物館として歩みをはじめたのです。(※興味のある方は寄ってください)
拝観料:500円

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曹洞宗 梅洞山 岩松院

福島正則公 霊廟
小布施は戦国武将、福島正則終焉の地です。岩松院には正則の墓所があります。

福島正紀は、豊臣秀吉重臣として賤ケ岳の戦いでは「七本槍の第一」と称せられました。また関ケ原の合戦でも勇名をはせ、広島城(49万8千石)の大大名になりましたが
幕府の謀略により元和5年(1619)秋、この信越地方(4万5千石)に国替えさせられました。 悲運を嘆きつつ在信5年、寛永元年(1624)7月13日 64歳で薨じています。

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葛飾北斎
本堂中央(大間)の天井に描かれている鳳凰図です。 葛飾北斎88歳から89歳にかけての作品といわれています。

北斎は83歳を初めとして小布施に4回訪れており、4回目の滞在約1年をかけて大間天井に鳳凰図を描きました。翌年江戸に戻り、90歳で亡くなっています。

大きさは畳21枚分。作成から170年以上たっていますが塗り替えは1度も行っておりません。朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・べろ藍・藍など顔料を膠水で溶いた絵具で彩色されており、周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね金箔の砂子が蒔かれています。
制作時の痕跡として、絵皿の跡が残っています。

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蛙合戦の池
俳人 小林一茶が「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」という句を詠んだ ”蛙合戦の池”。
池のほとりには一茶直筆の句碑があります。

春の花見が終わる頃になると、裏庭の小さな池に大人の手のひら大のアズマヒキガエルがいずこともなく集って来ます。メスの産卵をオスが手伝うためですが、メスが少ないために奪い合いとなって合戦となります。

1年の内の約5日間、昼夜の別なく、数十匹の蛙が入れ替わりくくみ声をあげての戦いは
静かな山寺の春の風情となっています。 産卵から50日すると産み落とされた卵は小豆大の子蛙に成長し、また何処ともなく消えていくのです。

蛙たちは3年から5年でまたこの池に産卵に下りてきます。そのため "必ずかえる" 福蛙とも呼ばれています。

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①仁王門 、②中庭 、③鐘楼、立入禁止ですが大晦日のみ解放いたします(除夜の鐘)、 ④観音像、 ⑤香炉 *冬季閉鎖、⑥本堂、⑦蛙合戦の池 *冬季閉鎖、⑧福島正則公霊廟 *冬季閉鎖、⑨井戸 *冬季閉鎖 *飲む際は煮沸してください、⑩太子堂、⑪遊歩道、⑫シャトルバス『おぶせロマン号』バス停 *冬季運休

拝観料:500円
駐車場:有り(無料)

 

画狂人 葛飾北斎の肉筆画美術館
信州小布施 北斎

信州小布施のメインとする場所、ここを目的に小布施に訪問する方も多いと聞きます。…信州小布施 北斎を紹介いたします。

江戸の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)90年の生涯で、代表作「冨嶽三十六景」をはじめ、多くの錦絵、絵手本、肉筆画などを制作しました。

天保13年(1982)北斎は83歳の頃に初めて信州小布施を訪れました。そのキッカケは幕府による天保の改革によって江戸では絵の制作制限されたことが理由です。地元の豪商、高山鴻山の招きに応じて小布施に滞在、鴻山の庇護の下、アトリエを与えられ、二人の関係は「先生」「旦那様」と呼ぶほど親密なものした。

この恵まれた環境で北斎は大作を残します。85歳で東屋台天井絵「龍図」「鳳凰図」。翌年、上町祭屋台天井絵「男浪図」「女浪図」を残します。

そして88歳の年、岩本院本堂大間の天井絵「鳳凰図」を手がけています。

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チョット葛飾北斎について触れておきましょう。

葛飾北斎の浮世絵『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』(下記画像)…絵そのものは幅40センチたらずなんですが存在感は圧倒的、一度見たら忘れられません。

この絵、海外ではGreat Wave(グレート・ウェーブ)と呼ばれ、モナリザに並び世界で最も知られた絵画とも言われています。

アメリカの雑誌『LEFE』(1998年)が過去1000年間の世界を作った重要人物100人を選びました…ナポレオンやアインシュタインなどそうそうたる顔触れの中、日本人で唯一選ばれたのが北斎(HOKUSAI)…いわば世界が最も尊敬する日本人なのです。

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しかし実際の北斎はというと結構ハチャメチャな人だったんです。
北斎は奇人として知られています…素足に草履、杖代わりに天秤棒、着物は着古してボロボロ、絵を描く事以外は無頓着、道で人にあってもろくに挨拶もしなかったといわれてます。

そして引っ越しが大好き…生涯で93回も…江戸中の長屋を渡り歩いていました。…名前も頻繁に変えました…春朗、宗理、戴斗、為一、八右衛門、雷震、時太郎、不染居、北斎…30もの名前を使いました…北斎もその一つだったのです。

家では掃除も一切せずひたすら描く、毎晩、目もくらみ腕が疲れたころ、ようやく筆を置きました…そしてそばを食べて寝る、そんな常人離れした日々を過ごしていたのです。

ある日、北斎の教えを乞おうと若い浮世絵師がやって来ました。…なのに北斎の横柄な態度と家の汚さにすっかり嫌気がさした若い絵師…それが歌川広重だったのです。

広重は、この時、北斎に似た絵は絶対に描かないと誓います。…これが両者の唯一の対面となったのです。

この後、広重が出したのが『東海道五拾三次』…日本橋から京都まで東海道の宿場を描いた55枚は、冨嶽三十六景を凌駕する大ヒットとなりました。

北斎も広重に絵で応えます。…またしても富士、まだ描き足りないとばかりに更に102点の富士を描き、抒情の広重とは異なり、形や構図の面白さを追求しました。

そんなハチャメチャな北斎の詳しい話は「いつだって負けずキライ ~葛飾北斎 横町のオヤジは世界一~ - 旅cafe」を参照ください。

拝観料:1000円

 

管理人の独り言

福島正則は管理人の好きな戦国武将でした。秀吉の小姓からスタートして、賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた。

そして関ヶ原の戦いで東軍勝利に大きく貢献して広島藩48万8000石の大大名まで上り詰めた人物。広島でも善政を敷いて領民から信頼され尊敬を受けていた。

しかし、家康死後まもなくの元和5年(1619年)、広島城の無断修築を武家諸法度違反として改易。安芸・備後50万石は没収、 …ここまでは認識していました。

ここから先は興味が無かったのでうる覚えでした…
信濃国川中島郡中高井郡越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受けることとなった。

この高井野藩の領地が ”小布施” だったんです。

 

 

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